2021年5月5日水曜日

現代語訳「和泉式部日記」

 
現代語訳「和泉式部日記」

   序にかえて
 ①…一、橘の花 (夢よりもはかなき世の中を) 
 ②…二、逢瀬  (かくて、しばしばのたまはする) 
 ③…三、閉ざす真木の戸 (つごもりの日、女) 
 ④…四、長雨 (五月五日になりぬ。) 
 ⑤…五、疑惑 (二三日ばかりありて、月のいみじうあかき夜) 
 ⑥…六、七夕 (かく言ふほどに、七月になりぬ。) 
 ⑦…七、石山寺参詣 (かかるほどに八月にもなりぬれば、)
 ⑧…八、暁起きの文 (九月廿日あまりばかりの有明の月に) 
 ⑨…九、手枕の袖 (かく言ふほどに、十月にもなりぬ。) 
 ⑩…十、檀(まゆみ)の紅葉 (かくて、二三日、音もせさせ給はず。) 
 ⑪…十一、車宿り (その日も暮れぬれば、)
 ⑫…十二、雪降る日 (十一月ついたちごろ、雪のいたく降る日)
 ⑬…十三、宮の邸へ (またの日、つとめて、)
 ⑭…十四、北の方の退去 (年かへりて、正月一日、)
  その後のこと

・丸数字の構成は当方で勝手に読み進む目安として設定したものです。
 各節の「題」も新たにつけたものです。
・末尾に「和泉式部関連年表」を置いています。

和泉式部日記 (口語訳)

序にかえて
  黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞこひしき

 若い時に「和泉式部日記」を読んだ折は浮気な女の自己満足という印象でしたが、年をとってから読んでみたらなかなかに面白いのでした。
 『和泉式部日記』には和泉式部のこと自身を語りながらも彼女が不在の場面描写もたびたび見られます。帥宮や周辺人物の視点でその心象が描き出されていたり、また、「手枕の袖」の場面では宮の目で式部の姿が映し出されていたりするのです。
 黒川家旧蔵の寛元本には、藤原俊成の作とあるといいます。この一大スキャンダルを二人の歌をもとにして俊成がその真相に迫る物語として組み立てたとして読むとなお面白く読めるのでした。
 ここでは、そういう第三者が記した(式部が「物語り作者の目」で記した)ものとして訳しています。
 艶めかしい恋の体感を味わいたい方は是非お読み下さい、通読ではなく、一首一首に立ち止まって。
 その上で原文でも読んでいただきたいと思います。
 訳は岩波の大系と小学館の古典文学全集を参照しながら、自分なりの解釈を加えてもいます。
 歌を口語の短歌にしてみようと試みましたが、これはすぐにあきらめました。掛詞や本歌取り等の高度の技法はとても口語にうつせません。結局、歌をあげ、歌意を添える形になりました。できるだけ通読して理解できるようにしてみたつもりです。 和泉式部の父は越前守大江雅致(まさむね)、母は越中守平保衡(やすひら)の娘でした。式部は幼名を御許丸といい、父の官名から「式部」、夫橘道貞の任国和泉から「和泉式部」と呼ばれます。
 母は介内侍と呼ばれた女房でしたから幼い頃には母の仕えていた冷泉院皇后の昌子内親王の宮で育ちます。この頃に幼い為尊親王・敦道親王と会う機会があったともいわれています。十九歳の時、父の片腕であった実直な橘道貞と結婚して、翌年には娘に恵まれます。後の小式部です。
 受領の夫の赴任先の和泉の国へついて行っていましたが、いろいろあってか式部は京に先に帰っています。この夫には後々も未練を残しているように思われます。
 また、式部は歌人として若いときから名をはせていました。
 離れて住む夫・道貞への思いを詠った歌の上手さが冷泉院の第三皇子の弾正宮為尊親王を引き寄せたとも、昌子中宮の病気見舞いに来られたとき為尊親王が一目惚れしたともいわれますが、二人は激しい恋に落ちます。二四歳のときのことです。美貌を誇る皇子に実直な夫にはない魅力をみいだしたのでしょう。このことは世の評判になり、夫の道貞も宮中での二人の噂を耳にします。このため夫婦はいつのまにか疎遠になり、事実上離婚の状態になってしまいます。身分違いの恋に父も怒って勘当します。
 それでも、式部にとっては恋人がすべてでした。
 しかし、この恋は二年ほどで終わります。長保四(一〇〇二)六月一三日、弾正宮為尊親王は 二六歳の若さで病であっけなく夭折してしまったのでした。
 さて、物語は、この悲しみにくれるなか、やがて一年が経とうというところから始まります。式部二六歳のときのことです。


和泉式部日記〔口語訳〕
① 
一、橘の花
 夢よりも更に儚く終わった亡き為尊様との恋を思い返しては嘆きを深くする日々を送りますうちに、いつしか一年近い月日が流れ、はやくも四月の十日過ぎにもなってしまい、木の下は日ごとに茂る葉で暗さを増してゆきます。塀の上の草が青々としてきますのも、世の人はことさら目にも留めないのでしょうけれど、あわれにしみじみと感じられて、為尊様を喪った夏の季節がまた巡って来るのだと式部には感慨深く思われるのです。
 そうした思いで式部が庭を眺めていた折のこと、近くの垣根越しに人の気配がしましたので誰だろうと思っていますと、亡き為尊様にお仕えしていた小舎人童なのでした。
 しみじみと物思いにふけっていた時でしたので懐かしく、
「どうして長い間みえなかったの。遠ざかっていく昔の思い出の忘れ形見とも思っているのに。」と取り次ぎの侍女に言わせますと、
「これという用事もなしにお伺いするのは馴れ馴れしいこととご遠慮申し上げておりますうちにご無沙汰をしてしまいました。このところは山寺に参詣して日を過ごしておりましたが、そうしているのも心細く所在無く思われましたので、亡き宮様の御身代わりにとも思い、為尊様の弟君である帥(そち)の宮敦道様のもとにお仕えすることにいたしました。」と童は語ります。 「それは大層良いお話ですこと。けれど帥の宮様はたいそう高貴で近寄りがたいお方でいらっしゃるのではないの。為尊様のもとにいた時の様にはいかないのでしょう。」などと言いますと、
「そうではいらっしゃいますが、たいそう親しげでもいらっしゃいます。今日も『いつもあちらに伺うのか』とこちらのご様子をお尋ねになりますので『参ります。』と申し上げましたところ、『これを持って伺い、どうご覧になりますかといって差し上げなさい』と仰いました。」と、取り出したのは橘の花でした。
 自然と『五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする』という古歌が思い出されて口ずさまれます。
 童が、「それではあちらに参りますが、どのようにご返事申し上げましょうか。」と言いますので、式部は、ただ言葉のみでのご返事というのも失礼なようですし、「どうしましょう、帥の宮様は色好みな方という噂はないのですから、どうということもない歌ならかまわないでしょう。」と思い、
  「かをる香によそふるよりはほととぎす聞かばやおなし声やしたると〔花橘の香は昔の人を思い出させるとか、けれども私はそれよりも、せめて昔と変わらぬあの方の声だけでも聞けないものかと、甲斐のない望みを抱いています。あなたのお声は兄宮様とそっくりなのでしょうか。〕」 と、橘の花に対して懐かしさを『ほととぎす』に見立て、『声ばかりこそ昔なりけれ』という素性法師の歌を踏まえたお返事をしたため、童に渡したのでした。
 帥の宮がなんとなく落ち着かない思いで縁にいらっしゃる時、この童がまだ遠慮があるのか物陰に隠れるようにして何か言いたげでいるのをお見つけになられて、「どうであった」と声をかけますと、童はようやく近づいてきてお手紙を差し出します。
 宮は式部の歌をご覧になられて、〔「兄上が人目も憚らず通い詰めていただけに、やはり並み一通りの女性ではない。」とでもお思いになられたのか、〕
  「同じ枝に鳴きつつをりしほととぎす声は変はらぬものと知らずや
〔兄の声が聞きたいとおっしゃるのですね。おなじ母から生まれ一緒に育った私の声も亡き兄と変わりないのは、ご存知ではないでしょう。お訪ねして、声を聞かせたいものです。〕」
とお書きになられて、その歌を童に渡し、「こんなことをしていると人には絶対言うな。いかにも色好みのように見られるからな。」と、童に口止めして奥にお入りになりました。〔しかし、噂が広がるのは避けられないと思われます。〕
 一方、式部は敦道様からのお歌に心ひかれるものはありましたけれど、そういつもいつもご返事するのはと思いそのままにします。
 ところが、宮は一度お便りを贈られたとなると、間もおかず、また、
  「うち出ででもありにしものをなかなかに苦しきまでも嘆く今日かな
〔はっきり言葉にして思いを打ち明けずとも良かったものを、どうして打ち明けてしまったのでしょう。そうしたことでかえって苦しいほどに思い嘆いている今日この頃です。〕 」
というお文(ふみ)をお書きになったのでした。
 式部は、もともと思慮深くもない人でしたから、男気のない慣れない心の虚ろに耐えかねてか、ふと心動かされ、おそらく本気ではないこうしたとりとめのない宮のお歌にも目が留まって、宮にご返事を差し上げます。
  「今日のまの心にかへて思ひやれながめつつのみ過ぐす心を
〔苦しいまでに嘆いているとおっしゃいますが、僅か今日一日のあなたの嘆きと比べてどうぞご想像なさってみてください。あの方を亡くして以来ずっと物思いに沈んだままで過ごしている私の苦しい心を。〕」
〔こんな式部を、世間の人々がは軽々しい女だと言うのでしょう。〕


② 
二、逢瀬
 こうして宮はしばしばお手紙をお遣わしになられ、式部もご返事を時々差し上げます。ものさびしさも少し慰められる思いで式部は日を過ごしていました。
 また、宮からのお手紙があります。文面もいつもより心こもっている様子で、
  「かたらはばなぐさむこともありやせむ言ふかひなくは思はざらなむ
〔お目にかかってお話したら心慰められることもあるのではないでしょうか、まさか、私と話しても話し相手にもならずせんないこととは思わないでください。〕
兄宮を偲んでしんみりとお話しもうしあげたいのですが、今夕にでもいかがでしょう」とお書きになっておられたので、式部は、
  「なぐさむと聞けばかたらまほしけれど身の憂きことぞ言ふかひもなき
〔心慰められると伺いましたらお話ししたいのですが、私の身についたつらさはお話したくらいではおっしゃるとおり「言う甲斐も無く」どうにもなりませんでしょう。〕
『何事もいはれざりけり身のうきはおひたる葦のねのみ泣かれて(何もことばにすることができません、我が身のつらさは、生えている葦の根ならぬ音(ね)を上げて泣くばかりですから。)[古今六帖]』の歌のように、泣くしかなく会ってもどうしようもありませんでしょう。」と申し上げます。
 宮は、思いもかけない時にひそかに訪れようとお思いになられて、昼から心準備なさり、ここ数日お手紙を取次いで差し上げている右近尉をお呼びになって、「忍んで出かけたい。車の用意を」とおっしゃるいます。右近尉は、「例の式部のところに行くのであろう」と思ってお供します。わざわざ飾り気のない質素なお車でめだたないようにお出かけになられ、「お目にかかりたく伺いました」と取り次がせなさったところ、式部はさしさわりがあるという気がしますが、「居りません」と言わせるわけにもいきません。昼間も手紙のご返事をさしあげていますから、家にいながらお帰し申し上げるのは心ない仕打ち過ぎましょうと思い、お話だけだけでもいたしましょうと、西の端の妻戸に藁座をさしだしてお入れ申し上げます。世間の人の評判を聴いているからでしょうか、宮の艶めかしく優雅な姿は並々ではありません。
 そのお美しさに心奪われながら、お話し申し上げていると、月がさし上りました。たいそう明るくまばゆいばかりです。
 宮は「古めかしく奥まったところにこもり暮らす身なので、こんな人目に付く端近の場所に坐り慣れていないので、ひどく気恥ずかしい気がします、あなたのいらっしゃるところに座らせてくださいませんか。これから先の私の振る舞いを見てください、決してこれまでお逢いになっていらっしゃる男たちのような振る舞いはしませんから。」とおっしゃいますが、「妙なことを。今宵だけお話し申し上げると思っておりますのに、これから先とはいったいいつのことをおっしゃるのでしょう。」などと、とりとめのないことのようにごまかし申し上げるうちに、夜はしだいに更けて行きます。
 このままむなしく夜を明かしてよいものか、と宮はお思いになられて、
  「はかもなき夢をだに見で明かしてはなにをか後の世語りにせん
〔はかない夏の短夜を仮寝の夢さえも見ないで夜を明かしてしまいましては、いったい何を今宵一夜の思い出話にできましょう。〕」
とおっしゃいます。式部は、
  「夜とともにぬるとは袖を思ふ身ものどかに夢を見るよひぞなき
〔夜になって寝るというのは、私にとっては兄宮様との仲を思い起こして涙で袖が濡れるということです、涙で苦しむ我が身にはのんびりと夢を見る宵などありません。〕
まして、弟の宮様と共に夜を過ごす心にはなれないのです。」と申し上げます。
 しかし宮は後に引けないと思ってか、「私は軽々しく出歩いて良い身分ではないのです。思いやりない振る舞いとあなたはお思いになるかもしれませんが、ほんとうに私の恋心はなんとも恐ろしく感じられるほどに高ぶっています」とおっしゃられて、おもむろに御簾の内にすべり入りなさいました。
 まことにせつないことの数々をおささやきなさりお約束なさって、夜が明けましたので、宮はお帰りになりました。
 お帰りなさるやすぐに、「今のお気分はいかがですか。私の方は不思議なまでにあなたのことが偲ばれます。」とお書きになり、
  「恋と言へば世のつねのとや思ふらむけさの心はたぐひだになし
〔恋しくてたまらないと言ってもあなたは世間並みのありふれた恋心だとお思いでしょう。しかし、逢瀬の後の今朝の恋しさといったら、たとえようもない激しいものです。〕」
という歌をお添えになります。そのご返事に式部は、
  「世のつねのことともさらに思ほえずはじめてものを思ふあしたは
〔おっしゃるとおりまったくありふれたことだとは私にも思われません、情を交わした後の思いに苦しみ、今朝ははじめて恋のせつなさを知りました。〕」
とご返事申し上げはするものの、「なんと不思議な我が身のさだめなのだろう。故宮があんなにも私を愛してくださったのに。」と思うにつけて、我が身自身が悲しく思われて思い乱れておりました。
 そんな折、例の童がやってきます。
 「宮からのお手紙があるだろうか」と思ったのですが、そうではありませんでしたのを「つらく苦しい」と式部は思いますが、それはなんとも好きずきしい心ではないでしょうか。
 式部は小舎人童が宮のもとにお帰りになるのにことづけて申し上げます。
  「待たましもかばかりこそはあらましか思ひもかけぬけふの夕暮れ
〔いづれあなたのおいでをお待ちすることになると思っておりましたが、これほど辛いということがありましたでしょうか、あなたのお出でを期待してもいない今日の夕暮れですが、お手紙もないので思いもかけない辛い思いでいます。〕」
 宮は、和泉式部の歌をご覧になって、「ほんとうに心痛むことだ。」とお思いになられるものの、こうした女のもとへの夜歩きを続けることは続いてはなさいません。
 北の方も、普通の夫婦のように仲むつまじくはしていらっしゃいませんが、毎夜毎夜外出するのも不審にお思いになるにちがいありません。また、兄宮が最期まで非難されなさったのも、この方のせいだった、と宮はお思いになられて慎まれますが、これも式部との仲を深い親密なものにしょうとはお思いなさらなかったからでしょう。
 暗くなるころ、宮からのご返事があります。
  「ひたぶるに待つとも言はばやすらはでゆくべきものを君が家路に
〔ひたすら待っているとでもあなたがおっしゃるなら、あなたの家に向けてためらわず行くはずのものですのに、「もしあなたのおいでを待ったとしても」などとおっしゃるとは。〕
私の思いがいいかげんなものではとあなたが思うのは残念なことです。」とありますので、式部は「いいえどういたしまして、私の方は、
  かかれどもおぼつかなくも思ほえずこれもむかしの縁こそあるらめ
〔あのような歌を差し上げましたが、こうしておいでがなくても不安だとは思われません。これもあなたとの仲が前世からの縁で結ばれているからでしょう。〕
とは存じておりますが、『なぐさむる言の葉にだにかからずは今も消ぬべき露の命を[後撰集](慰めてくれるお言葉さえも掛からないなら、今にも消えてしまいそうな露のような私の命です)』の歌のとおりです。」とご返事申し上げます。
 宮は、式部のもとにいらっしゃろうとはお思いになりますが、新しい事態に気後れを感じられて、そのまま数日が過ぎていきました。

③ 
三、閉ざす真木の戸
 四月の晦日に、式部は、
  「ほととぎす世にかくれたるしのび音をいつかは聞かむけふもすぎなば
〔「五月待つ」というほととぎすは四月のうちは忍び音で鳴くと申しますが、その忍び音はいったいいつ聞けるでしょう、今日で四月が終ります、四月の内にはおいでいただけないのでしょうか。〕」
と歌を差し上げますが、宮のお近くには人々がたくさんお仕え申し上げていたときでしたから、ご覧に入れることが出来ません。翌朝になって使いが宮のもとに持って参りますと、宮は手紙をご覧になり、
  「しのび音は苦しきものをほととぎす木高き声をけふよりは聞け
〔声を忍んでなくのはつらいものですが、五月になった今日からはほととぎすも高々と誇らしく鳴きましょう、これからは喜び溢れる私の声を聞いてください〕」
とお返事なさり、二、三日あっていつものように人目を忍んでお渡りになりました。
 式部は、物詣でしようと精進潔斎している折でもあり、宮の訪れが遠のいているのも愛情がないのであろうと思いますから、特にお話申し上げもしないままに、仏道精進にかこつけ申し上げて、宮のお相手もせずに夜を明かしました。
 翌朝、宮は、「風変わりな一夜を明かしたことです」などとおっしゃって、
  「いさやまだかかるみちをば知らぬかなあひてもあはで明かすものとは
〔いやいやまだこんな恋の道があるとは知りませんでした、せっかくお会いしてもひとつ床に入りもしないで夜を明かすことがあろうとは。〕
驚きあきれました。」としたためます。
 さだめしお驚きでいらっしゃるだろう、とお気の毒になり、式部は、
  「よとともに物思ふ人はよるとてもうちとけてめのあふ時もなし
〔一生の間(毎晩)悩みに沈む私は、夜くつろいだ気持ちで寝るときもありませんし、あなたが近くに寄ることがあっても、気を許して添い臥すことはありません。〕
夜ごと眠れぬことや共寝しないというのは、私には珍しいこととも思われません」と申し上げたのでした。
 翌五月四日、「今日お寺詣でにお出かけなさるのですか。いったいいつお帰りになるのでしょうか。いつにましてどんなにか待ち遠しく気がかりなことでしょう」と宮からお手紙があるので、式部は
  「をりすぎてさてもこそやめさみだれてこよひあやめの根をやかけまし
〔降る五月雨もその季節が過ぎたらきっと止むように、悲しみも時の流れにきっと消えて、私もいづれ帰ってまいります。それとも今夜おいでですか。心乱しながらも、五月五日の前夜の雨降る今宵、万根を癒すという屋根に葺く菖蒲の根ではないですが、その文目(あやめ=道理)に従った音(悲しむ涙)で一緒に袖を濡らしましょうか。〕
というふうにでもお思いくださるべきでした。」とご返事申し上げ、物詣でに参籠しました。
 三日ほどして帰りましところ、宮から、「たいそう気がかりになっておりましたので、参上してお逢いしよう思いますものの、先日はたいそうつらい目に会いましたから、なんとも気がふさぎ、また面目なくも思われまして、たいそう疎遠なことになってしまいましたが、ここ数日は、
  すぐすをも忘れやするとほどふればいと恋しさにけふはまけなん
〔このままあなたのことを忘れられはしないかと思って過ごしていましたが、時間が経つと、たいそうあなたが恋しくなって、今日はその気持ちに負けてお訪ねすることにいたします。〕
私の並々でない気持ちを、いくら冷淡なあなたでもおわかりでしょう。」とあります。そのご返事を式部は、
  「まくるとも見えぬものから玉かづら問ふ一すぢも絶えまがちにて
〔恋しい気持ちに負けたとおっしゃいますが、そうも思えません。玉葛(たまかづら)の蔓(つる)が長い一筋であるのに、その一筋の訪れも絶え間がちですから。〕」
と申し上げました。
 宮は、お手紙の通りいつものお忍びでいらっしゃいました。
 式部が「まさか今日はお越しではあるまい」と思いながら、ここ数日の勤行の疲れでうとうとしているときでした。宮の家来が門を叩きますが、それを聞きつける人もおりません。宮は、式部の数々の噂をお聞きになっていることもありましたので、きっと誰か男が来ているのだろうとお思いになり、そっとお帰りになられて、その翌朝、
  「開けざりし真木の戸ぐちに立ちながらつらき心のためしとぞ見し
〔昨夜はあなたが開けてくださらなかった真木の戸口に立ちつづけて、これがあなたの薄情な気持ちの証拠なのだ、と思い知りました。〕
恋の辛さはここに極まると思うにつけて、しみじみ悲しいことです。」という宮のお手紙があります。
 式部は「ほんとうに昨夜おいでになられたにちがいない。不用意にも寝てしまったものよ。」と思います。ご返事に、
  「いかでかは眞木の戸ぐちをさしながらつらき心のありなしを見む
〔どうして真木の戸を閉めたまま開けてもいないのに、私の気持ちが薄情かどうかおわかりになるのでしょうか〕
いろいろと変な邪推をなさっているようです。私の心を開けてお見せできれば「つらき心」などとは誤解されないでしょう。」と式部は記します。
 宮はそれをご覧になって、この宵もまたお出ましになりたかったのですけれど、こうしたお忍び歩きをお側の者たちがお止め申し上げているだけでなく、内大臣(藤原公季・宮の母超子の父兼家の弟)や東宮(居貞親王・同母兄、後の三条天皇)といった方々がお聞きなさることがあったらたらいかにも軽薄な振る舞いと思われるだろうと、気おくれなさっておりますうちに、宮の次の訪れはたいそう間遠になるのでした。

 五月雨が降り続いてたいそうものさびしいこの数日、式部は雲の切れ間もない長雨に、「私たちの仲はどうなっていくのだろう」とはてることのない物思いにふけり、「言い寄って来る男たちはたくさんいるが、現在ではなんとも思っていないのに、世間の人はあれこれ妙な噂を立てているようで、『いづ方にゆきかくれなむ世の中に身のあればこそ人もつらけれ[拾遺集](どこに姿を消そうか、人前に我が身があるからこそ他人もつらく当るのだろうから、姿を消しさえすればとやかく言われずに済むだろう)』という歌のとおり、どこぞに隠れてしまいたいもの」と思って過ごします。
 そんな折、宮から、「五月雨のものさびしさはどうやって過ごしていらっしゃいますか」といって、
  「おほかたにさみだるるとや思ふらむ君恋ひわたるけふのながめを
〔あなたはいつものとおりに五月雨が降っていると思っていらっしゃるでしょうが、実はあなたを恋い慕いつづける物思いが流す私の涙で雨が降りつづいている今日の長雨(景色)です。〕」
と詠んでこられたので、式部は「風流な時節を逃さずお手紙があるのがなんとも風情のあること」と思うのでした。また「ほんとうにしみじみとものさびしい時節だこと」と思って、
  「しのぶらむものとも知らでおのがただ身を知る雨と思ひけるかな
〔宮様が私のことを偲んで降る涙の雨とは存じませんでした、「数々に思ひ思はずとひがたみ身をしる雨は降りぞまされる[伊勢物語](あれこれと私のことを思ってくださっているのか、思ってくださっていないのか、お尋ねするのも難しいものですから、それ程にしか思われていない我が身の程を知っている雨は、このようにひどく降ってくるのでしょう。)」の歌のように、雨が降っているので私のもとに足を運んでくださらない、と思っておりました。伊勢物語ではこの後、男は蓑も笠も手にする余裕もないままに、ぐっしょりと濡れて、あわてふためいてやって来るのですが。〕」
と記して、その紙の一重を裏返して、透けて見えるのを見越して、
  「ふれば世のいとど憂さのみ知らるるにけふのながめに水まさらなん
〔この世に生きるにつれて、つらい思いばかりを思い知らされます。降り続くこの長雨の大水に物思いにふける我が身は押し流されたいと思います。〕
そうして流れ出した私を待ち受け救ってくれる男の方(彼岸)はいるのでしょうか」と申し上げたのでした。これを、宮はご覧になられ折り返しすぐに、
  「なにせむに身をさへ捨てむと思ふらむあまのしたには君のみやふる
〔どうしてまた大水に身までも捨てよう(出家しよう)とお思いなのですか、五月雨が降っていますが、天下に、あなただけが涙を流しているとお思いですか、私だってあなたと同じ思いで生きているのです。〕
歌に『なかなかにつらきにつけて忘れなば誰も憂き世やなげかざらまし[新後拾遺集](かえってつらいことがあるたびにそれを忘れてしまうのなら、誰もこの世を嘆かずにすむでしょう)』とありますが、あなたのことを忘れず思っているからこそ嘆いているのですよ」とご返事なさいます。

④ 
四、長雨
 五月も末になりました。梅雨はしとしとと相変わらず降り止みません。
 先日の式部からのご返事がいつもよりも物思いに沈んでいる様子であったのを、宮はしみじみいとおしいとお思いになられて、ひどく雨の降った夜が明けた早朝、「昨夜の雨の音は恐ろしいほどでしたが・・」などとお手紙をお送りになられる。
 式部が、
  「よもすがらなにごとをかは思ひつる窓打つ雨の音を聞きつつ
〔『白氏文集』の「蕭々暗雨打窓雨=蕭々たる暗き雨、窓を打つ声」のように窓を打つ雨の音を聞きながら一晩中眠れずに私が何を思っていたかご存知でしょうか、あなたのこと以外は考えませんでした。〕
家の内にいたのですが、『降る雨にいでてもぬれぬわが袖のかげにゐながらひぢまさるかな[貫之集](降る雨の中に出ても濡れることのない私の袖が、部屋にいるのにどんどん濡れて行きます。)』の歌のように、不思議なほど袖は涙でびっしょり濡れています。あなたのお運びがないからでしょう。」とご返事申し上げましたところ、
 宮は、「やはり気が利いていて言葉を掛ける甲斐のあるひとだ。」とお思いになられて、ご返事をお送りなさいます。
  「われもさぞ思ひやりつる雨の音をさせるつまなき宿はいかにと
〔私も同じようにあなたのことを偲んでおりました、激しい雨の音を遮る妻戸のうちに、頼りになる夫(つま)もいないあなたはどうお過ごしなのかと。〕」
 この日の昼頃、「加茂川の水が増した。」といって、人々が見にでかけます。宮もご覧になられて、「今どうしていらっしゃいますか。大水を見に出かけました。
  大水の岸つきたるにくらぶれど深き心はわれぞまされる
〔大雨で川の水が岸を浸すほどですが、その深さを比べてみますと、私の愛情のほうがずっとまさっています。〕
そういうふうに私の気持ちをご承知ですか。」とお便りなさいます。
 式部はご返事に、
  「今はよもきしもせじかし大水の深き心は川と見せつつ
〔『思へども人目つつみの高ければかはと見ながらえこそ渡らね[古今集](思ってはいるが、人目を慎む堤が高いので、これくらいはただの川に過ぎないと見ながらも、渡ってそちらに行くことができません)』と歌にあるように、今となってはもうあなたは決して、岸ならぬ、私のもとに『来』たりはなさらいのでしょう、深いお気持ちを『かは(これくらい)』と大水の川ようだと見せてはいらっしゃいますが。〕
お歌ばかりで甲斐のないことです。」と申し上げたのでした。
 宮が式部のもとにいらっしゃろうとお思いになられて、香をたき身づくろいなさっていますところに、侍従の乳母が参上して、「お出かけになるのはどちらですか。お出かけのことを、お側の者らがとやかくお噂申し上げているようです。その女は、特に高貴な身分ではありません。お使いになろうとお思いなら、お邸に召しいれてお使いになってください。軽々しく足をお運びになるのは、ほんとうにみっともないことです。そんな中でも、あの方は、男たちがたくさん足を運んでいる女です。不都合なことも引き起こりましょう。みなよくないことは、右近の尉の何とかいう者が始めたことです。亡くなった兄宮様をも、この者がその人のもとにお連れ歩き申し上げていたのです。夜の夜中までお出歩きなさったら、いいことがあるはずはありません(それで亡くなられたのですよ、お兄様は)。このようなご外出に伴う右近の尉のけしからぬところは、大殿(内大臣公季)様に告げ申し上げるつもりです。世の中が今日明日どう動くか分からないような時です、大殿様のお心づもりもおありでしょうから、世の中の動きがどうなるか見届けなさるまでは、こんな軽率なご外出はなさらないのがよろしいでしょう。」と申し上げなさいます。
 宮は「どこに行くものか。ものさびしいからなんとなく遊びで香を焚きしめているだけで、どこかにでかけるわけではない。また、あの人について大げさにいうべきではありません。」とだけおっしゃられて、「たしかにあの方は、不思議なほどつれない女ではあるが、それでもやはり期待通りの人なのだから、邸に呼んで召人(めしうど・愛人)として置いておければよいのだが。」などとお思いにはなられが、そんなことをしたら、今以上に聞き苦しい噂が立つだろうとあれこれ思い乱れているうちに、足が遠のいてしまわれるでした。

 やっとのことで宮は式部のもとにいらっしゃられて、「思いがけなく、不本意ながら足が遠のいてしまいましたが、冷淡な男だとお思いくださいますな。これもあなたのこれまでの過ちのせいだと思います。こうして私が足を運ぶのを不都合だと思う男の方々がたくさんあると聞いていますので、あなたに迷惑がかかっては気の毒だと思って遠慮していたのです。また世間体からも差し控えているうちに、いっそう足が遠のいてしまいました。」と生真面目にお話なさされて、「さあいらっしゃい、今宵だけは。誰にも見つからない場所があります。ゆっくり二人きりでお話申し上げましょう。」といって車を寄せてむりやりにお乗せになりますので、式部はしぶしぶながらも乗ってしまいました。誰かが聞きでもしたらたいへんと案じながら行くのですが、たいそう夜も更けていましたので、気付く人もおりません。宮はそっとひとけのない廊に車をさし寄せてお降りになりました。「降りなさい。」と強引におっしゃいますので、式部は月が明るく目立ちますから、見苦しく情けない気持で車から降りたのでした。
 宮は「どうですか、ひとけもない所でしょう。今日からはこんなふうにして誰にも知られぬようにお逢い申しましょう。あなたのお邸では他の男の客があるのではと思うと、気がねですから。」などとしみじみとお話しなさいます。
 夜が明けると車を寄せて式部をお乗せになって、「お家までお見送りにも参るべきでしょうが、明るくなってしまうでしょうから、私が外出していたと誰かに見られてしまうのは具合よくありません。」といって、宮はその邸にお留まりになりました。
 式部は、ひとり帰る道すがら、「なんとも変わった逢瀬だったこと、人はどんなふうに思うのだろう(またまた悪評が立つのだろうか)」と思います。夜明けにお別れする際の宮のお姿がなみなみでなく艶めかしく見えましたのが思い出されまして、
  「よひごとに帰しはすともいかでなほあかつき起きを君にせさせじ
〔毎宵毎宵あなたをお帰ししたとしても、どうして夜明け前に起きて私を見送るなんてことをこれ以上あなたにさせられましょう。〕
このように宮に見送られる逢瀬はつろうございました。」と書き送りますと、宮からは、
  「朝露のおくる思ひにくらぶればただに帰らんよひはまされり
〔早朝朝露が置くころ起きてあなたを見送るつらさに比べると、なにもせずにむなしく帰る宵の方がもっとつらいものです。〕
決して一夜を共に明かさず宵のうちに帰ることは聞き入れられません。今夕は方塞がりです。お迎えに参りましょう。」とご返事があります。
 「なんとも、みっともない、いつもいつも私の方から出かけるわけにはいかない」と式部は思いますが、宮は、昨夜のように車でいらっしゃいました。車をさし寄せて「早く、早く。」とおっしゃいますので、「なんともみっともないこと」と思いながらもそろそろとにじりでて乗りましたところ、昨夜と同じところで親しくお話しなさいます。
 宮の北の方は、宮がその父・冷泉上皇の院の棟にいらっしゃっている、とお思いです。
 夜が明けましたので、「『恋ひ恋ひてまれにあふ夜のあかつきは鳥のねつらきものにざりける[古今六帖](恋しくて恋しくてたまにあなたと逢う夜の夜明けは、別れの時刻を告げる鶏の声がつらいものです)』という気持ちです。」と宮はおっしゃり、そっと式部とともに車にお乗りになって送っていかれます。その道すがら、「こんなふうにお連れする時は必ず。」とお宮がおっしゃるのに、式部は「こんなふうにいつも連れ出されるというのはどうしたものでしょう。」と申し上げます。式部を邸にお送りなさってから、宮はご帰宅なさいました。
 しばらくして宮から後朝(きぬぎぬ)のお文があります。「今朝は鶏の声に起こされて、憎らしかったので、殺しました。」とおっしゃり、鶏の羽にお手紙を付けて。
  「殺してもなほあかぬかなにはとりのをりふし知らぬけさの一声
〔たとえ殺したってなお飽き足りない気持です、私たちの気持ちを推し量れない今朝のひと鳴きは許せませんでした。〕」
 式部から宮へのご返事は、
  「いかにとはわれこそ思へ朝な朝な鳴き聞かせつる鳥のつらさは
〔どんなにつれなく辛いことかは私の方が切に感じています、毎朝毎朝宮のおいでがなく虚しく夜が明けるのを鳴き聞かせる鶏の声を聞くつらさは。〕
と思いますにつけても、どうして鶏が憎くないことがありましょう。」というものでした。
 
⑤ 
五、疑惑
 二、三日ほどして、月がたいそう明るい夜、式部が縁先近くに座って月をみていますと、宮から「どうですか、月をご覧になっていますか」とお手紙があり、
  「わがごとく思ひは出づや山のはの月にかけつつ嘆く心を
〔私がそうしているようにあなたも私のことを思い出しておいででしょうか、私は山の端に沈もうとする月にかこつけて(先日ともに見た月を思い出し「山の端の逃げて入れずもあらなむ(いつまでも一緒にいれたら)」と)嘆いているのですが。〕」
とありました。いつもの歌よりも趣き深い上に、宮のお屋敷で、月が明るかったあの時に一緒にいるのを誰かが見ていただろうか、などとふと思い出していたときでしたので、式部は、
  「ひと夜見し月ぞと思へばながむれど心もゆかず目は空にして
〔あの夜一緒に見た月と同じ月と思いますと思わずしみじみ眺めていますが、心も晴れずお出でもないので目は空に向いていても、あなたを思うと上の空です。〕」
とご返事申し上げ、なおも独りでぼんやりしているうちに、むなしく夜は明けてしまうのでした。
 次の夜、宮がいらっしゃいましたが、式部の方では気付きませんでした。式部邸は、他の妹たちもそれぞれの部屋に住んでおりますので、妹の所に通ってきた車を、「車がある、きっと誰か男が来ているのだろう。」と宮は思い込みなさいます。不愉快ではありますが、そうはいっても、これで関係を絶ってしまおうとはお思いになられなかったので、お手紙をお送りになります。
 「昨夜は私が参りましたことはお聞きになったでしょうか。それとも、(他の方と一緒で)お気づきになれなかったのでしょうか、と思うと、たいそう悲しくつらいことです」と記されて、
  「松山に波高しとは見てしかどけふのながめはただならぬかな
〔「君をおきてあだし心をわがもたば末の松山なみもこえなむ[古今集](あなた以外に浮気心を私が持ったら、末の松山を波が越えるでしょう、そんなことはどちらもありえません)」という歌がありますが、あなたが私を裏切って、松山に波が高まっていると思いましたが、今日の私の物思いは、ただごとではありません、この長雨についに波は松山を越えてしまうでしょう。〕」
というお歌が記してあります。
 ちょうど雨が降っているときです。式部は「妙なことがあったものです。だれか宮にいつわりを申しあげたのでしょうか。」と思い、
  「君をこそ末の松とは聞きわたれひとしなみには誰か越ゆべき
〔私に濡れ衣を着せるのは、あなたの方こそあなたの波が松山を越えて誰かいい人が出来て私を捨てようとなさっていらっしゃるのではないですか、いったい誰の波が同じように松山を越えようとするでしょう、私は心変わりなどしません。〕」
と申し上げたのでした。
 宮は、この夜のことをなんとなく不愉快にお思いになられて、長い間お手紙もお送りにならずにいました。
 しばらく後になって、
  「つらしともまた恋しともさまざまに思ふことこそひまなかりけれ
〔私につらい思いをさせるあなたのことを薄情だともまた恋しいとも思い、心の安らぐ時がありません。〕」
とお詠みらられました。
 式部は、ご返事としては、「申し開きせねばならない内容がないわけではありませんが、ことさらに言い訳めいてしまいますのも気後れいたしまして、
  「あふことはとまれかうまれ嘆かじをうらみ絶えせぬ仲となりなば
〔あなたが私に逢ってくださるかどうか、今後がどうなったとしても嘆きませんが、あなたと恨みの絶えることのない仲となってしまったら嘆かずにはいられません。〕」
とだけ申し上げました。
 こうして、この後はやはり宮との仲は遠のいていました。

 月の明るい夜、式部は横になって、「かくばかり経がたくみゆる世の中にうらやましくもすめる月かな[拾遺集](このように過ごし難く見えるこの世の中に、うらやましいことに澄ん(住ん)でいる月ですこと。)」などと月を眺めては物思いにふけらずにいられなくて、宮にお手紙をさしあげます。
  「月を見て荒れたる宿にながむとは見に来ぬまでも誰に告げよと
〔私が月を見ながら荒れ果てた家で一人淋しく物思いにふけっているとは、宮様がいらっしゃらなくても、宮様以外の誰に告げよというのでしょうか。〕」
 樋洗(ひすまし)の女童に命じて、「右近尉に渡しておいで。」といって送ります。
 宮は御前に人々を召してお話なさっていらっしゃる時でございした。(それゆえすぐにはお見せできず、)みなが退出してから右近尉がお手紙を宮にさしだしますと、「いつもの目立たない車で出かける準備をせよ。」とおっしゃって、式部のもとにいらっしゃいます。
 式部はまだ端近で物思いにふけって月を眺めながら座っている時でしたが、誰かが邸に入ってくるので、簾を下ろしていますと、いつものように宮はいらっしゃる度毎の目新しい感じのするお姿で現れて、御直衣などたいそう着慣れて柔らかになっているのが、趣き深く見えます。何もおっしゃらずに、御扇に手紙を置いて、「あなたからのお使いが、私の返事を受け取らないままで帰りましたので、私が届けに参りました。」とおっしゃって簾の下からお差し出しになりました。式部は、お話し申し上げるにも場所が遠くて具合が悪いので、自分の扇を差し出して受け取りました。
 宮も家の内に上ろう、とお思いになりました。そこで、前栽の趣深い中に進みなさって、「わがおもふ人は草葉のつゆなれやかくれば袖のまづしをるらむ[拾遺集](私の愛する人は草葉の露なのでしょうか、草葉に袖を掛けると露で濡れますが、それと同じに思いを懸けると涙で袖が濡れることです)」などとおっしゃいます。その様子は、たいそう優雅で気品があります。式部の近くにお寄りになって、「今宵はこのまま下がります。『たれにつげよ』と詠まれていましたが、あなたが誰に思いを寄せているのかを見定めようと思って参上したのです。明日は物忌みといいましたので、自宅にいないのもまずいと思って今日は下がります。」といってお帰りになろうとしますので、式部は、
  「こころみに雨も降らなむ宿すぎて空行く月の影やとまると
〔試しに雨でも降ってほしいものです、それで我が家を通り過ぎて行く空の月の光が留まってくれるか、宮様もお泊りにまってくれないかと。〕」
と申し上げます。
 宮は、式部が周りの人がいうよりも子供っぽくて、いじらしいとお思いになります。「いとしい方よ。」とおっしゃられてしばらく部屋にお上がりになって、お帰りになられるとき、
  「あぢきなく雲居の月にさそはれて影こそ出づれ心やはゆく
〔残念なことに雲にかかる月が動くのに誘われて私の影も帰りますが、私の心はどこにも行きません。〕」
とお詠いになります。お帰りになってから、先程扇にお受けした宮のお手紙を見ますと、
  「我ゆゑに月をながむと告げつればまことかと見に出でて来にけり
〔私ゆえに物思いにふけって月を眺めているとお告げでしたので、ほんとうかな、と思って見に出てきました。〕」
と記してあります。
 式部は、「やはり宮は本当に風流でいらっしゃる。私のことをたいそうとんでもない女だとお聞きでいらっしゃるのを、なんとかして、考え直していただきたいもの」と思います。
 一方宮もまた、「式部という方はつまらなくはない、もの寂しいときの慰めにしよう」とはお思いになりますが、お仕えしている人々が申し上げるには、「最近は源少将がおいでになるそうです。昼もいらっしゃるそうです。」とか、また、「治部卿の源俊賢様もいらっしゃるそうですよ。」などと口々に申し上げますので、宮は式部がひどく軽々しい人であるようにもお思いになられて、長い間お手紙もお送りになりません。
 

 宮に仕える小舎人童がやってきました。樋洗の女童は、いつも語り合って親しくしていたので、「宮からのお手紙はあるのですか」というと、「お手紙はありません。先夜いらっしゃったときに、御門に車があったのをご覧になって、それからお手紙もお出しにならないようです。他の男が通っているようにお聞きになっているようすです。」などといって帰っていきます。
 樋洗の女童から「小舎人童がこんなふうに言っています」と聞いて、式部は「ずっと長いあいだ何やかやと望みを私から申し上げることもなく、ことさら宮様におすがりすることもなかったけれど、時々こうして私を思い出してくださる間は、二人の関係は絶えないでいようと思っていましたのに、こともあろうに、こんなとんでもない噂のために私をお疑いなってしまわれた」と思うと、身も心もつらくて、「いく世しもあらじわが身をなぞもかくあまの刈藻に思ひみだるる(長くもないわが身がどうしてこう思い乱れるのだろう)。」と嘆いていますと、宮様からのお手紙が届きます。
 「近ごろ妙に身体の具合が悪くてごぶさたいたしました。先日もそちらに参上しましたが、折悪く他の方の来ている時で帰るしかなかったのですが、本当に一人前扱いされていない気がしまして、
  よしやよし今はうらみじ磯に出でてこぎ離れ行くあまの小舟を
〔ええもういいのです、今となってはもう「浦見」ならぬ「恨み」はしますまい、磯に出て岸からも私からも漕ぎ離れて行く漁師の舟ならぬあなたを。〕」
とありますので、あきれはてた噂をお聞きになっている上に、言い訳みたいなことを申し上げるのもきまりわるいのですが、今回限りはと思って、
  「袖のうらにただわがやくとしほたれて舟流したるあまとこそなれ
〔「袖の浦」で藻塩を焼こうと潮を垂らしているうちに舟を流してしまった漁師のように、私の「袖の裏」に、ひたすら私の役(やく)として涙を流しているうちに、宮様に去られてよるべをなくしてしまいました。〕」
と式部は宮にご返事申し上げたのでした。


⑥ 
六、七夕
 こんな手紙のやりとりをしているうちに、七月になりました。
 七日七夕、色事の好きな男たちのもとから、「あなたは織女、私は彦星、今宵逢いましょう。」などという恋文がたくさん届きますが、式部は目にも留めません。「こんな風流な時節には、宮様は時機を見過さずにお手紙くださったものなのに、ほんとうに私のことを忘れてしまわれたのだろうか。」と思っている丁度その時に、宮からお手紙が届きます。見ると、ただ歌だけで
  「思ひきや七夕つ女に身をなして天の河原をながむべしとは
〔あなたは我が身を織女の立場に置いて、逢いたい人に逢えずに天の河原をぼんやり眺めることになるなどと思ったことは今までなかったことでしょう(いつも男の方の陰のあるあなたですから)、いや、年に一度の逢瀬もかなわぬ身とは思いもしなかったことです。〕」
と記してあります。
 「そんな皮肉を言ってもやはり、宮様は風流な時節をお見過ごしなさらないようだ。」と思うとうれしくて、
  「ながむらむ空をだに見ず七夕に忌まるばかりのわが身と思へば
〔あなたが物思いにふけってながめていらっしゃるという空さえも私は見る気になれません、年に一度の七夕にあなたから忌み嫌われているほどの我が身だと思いますと悲しくて。〕」
と式部はお返ししましたが、宮はそれをご覧になるにつけても、やはり式部を思い切ることはできない、とお思いになられます。
 七月の末ごろになって、宮から「たいそう疎遠になって不安になっておりますが、どうして時折お便りをくださらないのですか。私など人並みにも思ってくださらないのでしょう。」とお手紙が届きますので、式部が、
  「寢覚めねば聞かぬなるらむをぎ風は吹かざらめやは秋の夜な夜な
〔あなたは安らかにお眠りで夜に目が覚めたりなさらないから耳になさらないでしょう、あなたを招く(をぐ)荻(をぎ)を吹く風が吹かないときがありましょうか、秋の夜毎に荻の風は吹き、私は寝ずにあなたのお出でをお待ちしています。〕」
と申し上げますと、すぐに宮から、
「いとしい方よ、私が安らかに寝ているとおっしゃるのですか。『人しれず物おもふときは難波なる葦の白根のしられやはする[古今六帖](誰にも知られないように物思いをしているときは、難波にある葦の白根ではないが、ひとり眠られぬ苦しさを誰が知っているでしょう。)』と歌にあります、私の思いはあなたにさえ知られないくらい深いのです。通り一遍の重いではありません、
  をぎ風は吹かばいも寢で今よりぞおどろかすかと聞くべかりける
〔私を招く荻を揺らす風が吹くものなら(もしお招きなら)、眠りもしないで、「今起こすか(吹くか・招くか)」と思って聞きいりましよう。〕」
とご返事があります。
 
 こうして二日ほどして、夕暮れに急に宮がお車を引き入れて式部の邸にお降りになりますので、夕暮れのまだ陽の出ている時で、明るいところではまだ顔をお見せ申し上げていないので恥ずかしく思いますが、どうしようもなくてお会いしました。宮は、とりとめのないことなどをお話なされてお帰りになりました。
 その後、数日が経ちますのに、たいそう不安になるくらいに、お手紙も下さいませんので、式部は、
  「くれぐれと秋の日ごろのふるままに思ひ知られぬあやしかりしも
〔おぼつかない気持ちのまま暮れて行く秋の数日を数えるうちに、よくわかりました、『いつとてもこひしからずはあらねども秋の夕はあやしかりけり[古今集](いつもいつも恋しくないことはないのですが、秋の夕暮れは特に不思議なほど恋しく思われます)』という歌の気持が。それにしても先日はやはり不思議な訪れでした、他の人を訪れる途中のお立ち寄りだったのでしょうか。〕
『帰りにし雁ぞ鳴くなるむべ人はうき世の中をそむきかぬらむ[拾遺集](戻ってきた雁の鳴く声を聞くと、しみじみ人が恋われてなるほど人はつらいこの世に背を向けて出家しかねるのでしょう)』の歌ではないですが、宮様からのお便りがないからといって諦めきれず出家もしかねています。」と申し上げました。
 宮から、「こんなふうに時が経って行くうちに間遠になってしまいました。けれども、
  人はいさわれは忘れずほどふれど秋の夕暮れありしあふこと
〔『人はいさ心もしらず古里は花ぞ昔の香ににほひける[古今集](あなたはさあどうでしょう、人の心はわかりませんが、むかしなじみのこの地は、梅の花が昔のままの香りで私を歓び迎えてくれています)』ではありませんが、あなたはさあどうでしょうか、私はあなたのことを忘れません、どんなに時間が経っても、あの秋の夕暮れにお会いしたことを。〕」
とお手紙があります。
 まことにとりとめもなく、頼みにもならないこのような歌のやり取りで、二人の仲を慰めておりますのも、思いみればあきれるほどに嘆かわしいことと式部は思います。

⑦ 
七、石山寺参詣
 こうしているうちに中秋の八月にもなってしまいましたので、式部は、もの寂しさを慰めようと、石山寺に参詣して七日ほども籠ろうと詣でました。
 宮は、「長い間会わないでいることだ。」とお思いになられて、お手紙を送ろうとしますが、小舎人童が、「先日、私は式部様のお邸に伺いましたが、今の時期は石山寺にいらっしゃるそうです。」と、人を通じて宮にご報告申し上げましたので、宮は「それでは、今日はもう日が暮れて遅い。明朝石山寺に出向け。」とおっしゃってお手紙をお書きになり童にお与えになりました。
 翌朝、童が石山寺に行ってみると、式部は住み慣れた都が恋しく、こうした参籠につけても、昔とはうってかわった我が身のありさまよと思いますとたいそう物悲しくて、仏のお前にはおらず、端近で熱心に仏を祈り申し上げているときでした。
 高欄の下のあたりに人の気配がするので、不審に思って見下ろしてみると、この童です。うれしくも思いがけない所になじみの童が来ましたので、「どうしたのか。」と侍女に問わせますと、宮のお手紙をさしだしますので、いつも以上に急いで開けて見ます。
 「たいそう信心深く山にお入りになったことです。どうして、こうなさるとさえおっしゃってくださらなかったのでしょうか。私を仏道の妨げとまではお思いではないでしょうが、私を置き去りになさるのがつらく思われます。」とのお手紙で、
  「関越えてけふぞ問ふとや人は知る思ひ絶えせぬ心づかひを
〔逢坂の関を越えて今日私が手紙を送るとあなたはわかっていましたか、決して私のあなたを思う想いはこんなことでは絶えることはないのだという心くばりをおわかりでしょうか。〕
いつ山をお出になるのでしょうか。」と記されています。
 近くにいらしてさえ間遠にして不安にさせなさいましたのに、こうして遠くまでわざわざ見舞ってくださるのが面白く、式部は、
  「あふみぢは忘れぬめりと見しものを関うち越えて問ふ人や誰
〔石山寺は近江路(あふみぢ)にありますが、あなたは私と「逢ふ道(逢う方法)」を忘れてしまわれたようと思って見ておりましたのに、逢坂の関を越えて私に逢おうと見舞ってくれる人はいったいどなたでしょうか(あの冷たい宮様だとはとても思われません)。〕
いつ下山するかとお尋ねになっていますが、私がいいかげんな信仰心で山に入ったとお思いなのでしょうか。
  山ながらうきはたつとも都へはいつかうち出の浜は見るべき
〔石山ではありますが浮くものは浮くようにどんなに憂いつらいことが絶たれたとしても、また山にいて辛いことが続いても、いつの日か都めざして琵琶湖半の打出の浜に打ち出て見ることがありましょうか。〕」
と申し上げました。
 お受け取りになった宮は、「つらくてももう一度石山へ行け。」と童に命じられて、
 「先ほど『逢おうと見舞ってくれる人は誰でしょうか』とかおっしゃいましたが、あまりにあきれたおっしゃりようです。
  たづね行くあふ坂山のかひもなくおぼめくばかり忘るべしやは
〔あなたに逢おうと逢坂山を越えて訪ねて行く甲斐もなく、私が誰だかわからないほどに忘れることがあってよいものでしょうか。〕
本当なのでしょうか、
  うきによりひたやごもりと思ふともあふみの海はうち出てを見よ
〔つらさからひたすら参籠しようとお思いでも、どうぞ私に逢うために山を打ち出て淡海の海(琵琶湖)の打出の浜を見てください。〕
古歌に、『世の中の憂きたびごとに身をなげば深き谷こそ浅くなりなめ[古今集](俗世でつらいことがあるたびに身投げをしたら、屍で深い谷も浅くなるだろう)』というではありませんか、簡単に「憂きたびごとに山籠る」などと言わないでください。」とお手紙をお送りなさいました。
 式部はただこんな歌を、
  「関山のせきとめられぬ涙こそあふみの海とながれ出づらめ
〔逢坂山の関ではありませんが、宮様との逢瀬を思って堰き止めることのできない私の涙は、逢う身もつらい(憂み)と淡海の海(琵琶湖)の水となってきっと流れ(泣かれ)出ているでしょう。〕」
と書いてその端に、
  「こころみにおのが心もこころみむいざ都へと来てさそひみよ
〔ためしに自分の決意の程を試してみようと石山寺に籠っています、そちらに真のお心があるのでしたらさあ都に帰ろうとどうぞ私に会いに来て誘ってみてください(あなたの熱意次第ではないでしょか)。〕」と記します。
 宮は、あの方が思いもかけない時に迎えに行きたいものだとはお思いになられますが、どうしてそんなことができましょう。

 こんなやりとりの後、式部は石山寺を出て都に帰ったのでした。
 宮から「あなたから、『戻ってくるかどうか誘ってみて』といわれましが、あなたが慌しく石山寺から出てしまわれたから迎えに行けませんでした、
  あさましや法の山路に入りさして都の方へ誰さそひけむ
〔予想外でしたよ、仏の道の山籠もりを途中で止めにして都へ戻っておいでとはいったい誰が誘ったでしょうか(私がお迎えに行く前に)。〕」とお手紙があります。
 これのご返事には式部はただ歌だけを返します。
  「山を出でて冥きみちにぞたどり来し今ひとたびのあふことにより
〔石山寺を出て、法(のり)の導きのない無明の闇に包まれる昏冥(くら)い俗世にたどたどしくもどりました、もう一度宮様との逢瀬を持ちたいばかりに。〕」

 八月末ごろに、風が激しく吹いて、野分めいて雨など降る時に、式部が、いつもよりもなんとなく心細く思われて物思いにふけっておりますと、宮からのお手紙が届きます。いつものように、時節を心得たかのようなお便りをくださいましたので、ふだんの薄情の罪をもきっとお許し申し上げたに違いありません。
  「嘆きつつ秋のみ空をながむれば雲うちさわぎ風ぞはげしき
〔お逢いできないのを嘆きながら秋の空を眺めますと、雲が乱れ動き風が激しく吹いています(私の気持ちか、あなたの不安なお気持ちの現われでしょうか)。〕」
 この宮のお歌への、式部のご返事、
  「秋風は氣色吹くだに悲しきにかきくもる日は言ふ方ぞなき
〔秋風は、ほんのわずか吹くだけでさえ悲しい気持ちになりますのに、こんなに空がかき曇る日は、なんともいいようもなくわびしいものです(逢いに来て下さいませんの)。〕」
 宮は、なるほどそんな気持ちなのであろうとお思いになりますが、いつものように、訪れることのないまま一月ほどが過ぎていきました。


⑧ 
八、暁起きの文
 九月二十日すぎの有明の月が西の空にある頃のことです。
 宮は目をお覚ましになって、「たいそう長いこと訪れないままになってしまったことだ。きっと今頃はこの月は見ていることであろう、他の男も一緒なのだろうか。」とお思いになられ、いつもの小舎人童だけをお供としておでかけになり、門を叩かせなさいます。式部が、目を覚ましていてなにやかや思いつづけて横になっている時でした。
 式部は、何もかも、最近は、秋という季節柄だろうか、なんとなく心細く、いつもよりもしみじみとものがなしく思われ、物思いにふけっていたのでした。
 「変だわ、こんな時間に誰だろう」と思って、前に寝ている侍女を起こして下男に誰だか問わせようとしますが、侍女はすぐには起きません。やっとのことで起こしても、あちらこちらぶつかってうろたえているうちに、門を叩く音は止んでしまいました。「帰ってしまったのでしょうか。物思いもなく惰眠をむさぼっているのだろうと思われでもしたら、なんとも心ないのんきな様子だととられることになってしまうが、きっと私と同じ気持ちで悩んでまだ寝ていなかった人なのだ。誰なのだろう。」と式部は思います。
 侍女に起こされてやっとのことで起きた下男が、「だれもいませんでした。みなさま空耳をお聞きになられて、夜の頃合いに惑わかされる、なんとも人騒がせなお邸の女房様方だ。」といって下男はまた寝てしまいました。
 式部は、寝ないで、そのまま夜を明かしました。ひどく霧の懸かった空を物思いにふけってながめながら、明るくなったので、今朝の夜明け前に起きた事情をそのへんの紙に気楽に書き付けていますと、いつものように宮からのお手紙が届きます。ただ歌だけが記されています。
  「秋の夜のありあけの月の入るまでにやすらひかねて帰りにしかな
〔秋の夜の有明の月が西に沈むまでお邸の前にとどまっている訳にもいかずとうとう帰って来てしまいました。〕」
 式部は「なんとまあ、まことに私のことを期待はずれな女だとお思いになっていらっしゃることだろう。」と思うとともに、「やはり風流な時節をお見逃しなさらないこと。まことにしみじみと趣き深い空の様子をご覧になっていらしたのだ。」と思うにつけて、うれしくて、さっきの手遊びのように書いていたものを、そのまま手紙として結んで宮にお返し申し上げます。
 式部から届いた文を宮は御覧になります。
 「風の音が、木の葉一枚散り残ることがないほどに吹いているのは、いつもよりもものさみしく感じられます。ぶきみなくらい空が曇っているものの、ただ気持ちばかりの雨がさっと降るのは、なんとももの寂しく思われて、
  秋のうちはくちはてぬべしことわりの時雨に誰か袖はからまし
〔今、秋も終わろうとしていますが、秋のうちに私の袖は涙で腐ってしまうでしょう、そうしたら、この後に来る初冬の時雨にはいったい誰の袖を借りればよいのでしょうか。〕
なげかわしいと思いますが、そんな私を知る人もおりません。草の色までも以前見たのと違って色づいてゆきますから、時雨が降る十月にはまだ早いと思われますのに、吹く風に、草がつらそうになびいているのを見るにつけ、ただいますぐにも消えてしまいそうな露のようなはかない我が身が危うく思われ、草葉にかこつけて悲しい気持ちのままに、奥にも入らずにそのまま端近で横になってみましたが、少しも寝られそうにありません。侍女たちはみんな気楽に寝ていますが、心乱れて思い定めることもできそうもありませんので、なすこともなく目だけ覚ましていて、ひたすらこの身を恨めしく思いながら横になっておりますと、雁がかすかに鳴いています。今頃宮様は私と同じようには思い悩んでいらっしゃらないだろう、たいそう堪えられないという気がしまして、
  まどろまであはれいく夜になりぬらむただ雁がねを聞くわざにして
〔まどろみもしないまま、ああ、幾夜になってしまっただろう、毎夜ただ雁の鳴き声を聞くことばかりを繰り返して。〕
とこんな状態で夜を明かすよりはと思って、妻戸を押し開けましたところ、大空に、西へ傾いている月の光が遠く澄み切って見える上に、霧が懸った空の雰囲気、鐘の暁を告げる声、鶏の鳴き声がひとつに融け響き合って、更に、過ぎていった日々や現在これからのことごとが思い合わされ、これほどまでに心深く感じられる時はありますまいと、袖を濡らす涙の滴までが、しみじみといつになく新鮮なのでした。
  われならぬ人もさぞ見むなが月の有明の月にしかじあはれは
〔私ではない他の人もきっとそう思って見ていることでしょう、しみじみした情趣は夜の長い長月(九月)の有明の月に及ぶものはなかろうと。〕
たったいまうちの門を従者に叩かせる人がいるとしたら、私はどう感じるでしょう。いやほんとに、いったい誰が私以外にこうして寝られずに月を見て夜を明かしている人がいるでしょう。
  よそにてもおなし心に有明の月を見るやとたれに問はまし
〔どこかよそででも私と同じ気持ちで有明の月を見ていますかと尋ねてみたくとも、いったい誰に問うたらいいのでしょう。〕」
 宮のもとに差し上げ申そうかと思っていたところに、宮からお手紙が届いたので、そのまま宮に差し上げました式部の文でしたから、宮は、それを御覧になり、期待はずれとはお思いになりませんが、お訪ねにはならず、式部が物思いにふけっているうちに急いで手紙をとお思いになられて、お届けになります。
 式部がものおもいにふけって外を見てすわっているところに、宮からの返事をもってきましたので、余りに早いお返事に、はりあいのない気もしますが、急いで開けてみますと、
  「秋のうちはくちけるものを人もさはわが袖とのみ思ひけるかな
〔秋のうちに涙で私の袖も朽ちてしまったのに、私だけでなくあなたも、朽ちたのは自分の袖だけだとお思いでしたね。〕
  消えぬべき露の命と思はずは久しき菊にかかりやはせぬ
〔消えてしまいそうな露のようなはかない命だと思わないで、寿命の長い菊になぜあやからないのですか。〕
  まどろまで雲居の雁の音を聞くは心づからのわざにぞありける
〔少しも眠りもせずに雲の上の雁の声を聞いているのは、あなたの心から出たことでしょう、他の人を思ったり私の愛情を疑ってのことでしょうか。〕
  我ならぬ人も有明の空をのみおなし心にながめけるかな
〔本当に私だけでなくあなたも、有明の空をひたすら私と同じ気持ちで物思いにふけって眺めていたのですね。〕
  よそにても君ばかりこそ月見めと思ひて行きしけさぞくやしき
〔離れてはいてもあなただけはこの月を見ているだろうと思って足を運んだのですが、あなたが起きていらっしゃると気付かずに帰って来てしまった今朝のことがまことに残念です。〕
そのまま夜を明かすことも門を開けることもまことに難しいことでできませんでした。」とあります。
 やはり手習いの文をお送り申し上げた甲斐はあったのでした。

 こんなことがあって、九月末ごろに宮からお手紙が届きます。
 ここ数日の、ごぶさたの気がかりさなどをおっしゃって、「妙な頼みですが、常日頃、手紙のやり取りをしていた人が遠くに行くそうなので、先方が感心しそうな別れの歌をひとつ贈ろうと思いますが、あなたからくださる歌だけがいつもすばらしいので、ひとつ私の代わりに一首作ってくれませんか。」とあります。
 「まあ、何とも得意顔。」と式部は思いますが、「そんな代作の歌はお作り出来ませんでしょう。」と申し上げるのも、たいそう気が利きませんから、「おっしゃるとおりにどうして上手にお詠み申し上げられましょう。」とだけ申し上げて、
  「惜しまるる涙に影はとまらなむ心も知らず秋は行くとも
〔あなたとの別れを惜しんで流さずにはいられない私の涙の中に、あなたの面影が留まって欲しいと思う、私の気持ちも知らないで、秋が去ってゆく時に、あなたが行ってしまうとしても。〕
ご使用いただけるようには詠えません、我ながらきまりわるいことでございます。」と記し、紙の隅に次のように書き添えます。
 「それにしても、
  君をおきていづち行くらむわれだにも憂き世の中にしひてこそふれ
〔宮を置き去りにしてその方はどちらに行くのでしょう、その方ほどに宮に愛されていない私でさえ、このつらい宮との仲をこらえてこの世を過ごしておりますのに。〕」
 こう式部が記してきたので、宮は、
 「望みどおりの歌でしたと申し上げるのも、いかにも歌を理解していると恰好をつけるようで気が咎めます。しかし、添えてあるお歌は余りに邪推が過ぎます。『つらい男女の仲』とありますがそんな関係ではないのですから。
  うちすててたび行く人はさもあらばあれまたなきものと君し思はば
〔私を捨てて旅に出る人はそれはそれでどうでもよいのです、ふたつとない存在だと他ならぬあなたが私のことを思ってくださるのなら、〕
それならこの辛い世を生きていけるでしょう。」とご返事なさったのでした。
⑨ 
九、手枕の袖
 こんなやりとりをしているうちに十月にもなった。
 十月十日ごろに宮は式部の邸にいらっしゃった。建物の奥は暗くて不気味なので、端近くで横になられて、寝物語にしみじみと愛の限りをお話になるので、心にしみることも多く式部にとってはお話を伺う甲斐がないわけではない。月は、雲に隠れ隠れして、時雨が降る折である。わざわざしみじみした趣きの限りを作りだしたような風情なので、式部の思い乱れる心は、ほんとうに訳もなくぞくぞくするほどであったから、その様子を宮も御覧になり、「人は式部を浮気でけしからぬ女のようにいうが、おかしな話だ、こんなに純で可愛げではないか」などとお思いになる。
 宮はいとしくあわれにお思いになって、式部がぐったり寝ているようにして思い乱れて横になっているのを、宮は押し起こしなさって、
  時雨にも露にもあてでねたる夜をあやしくぬるる手枕の袖
〔時雨にも夜露にもあてないで共に寝た夜なのに、なんとも不思議と濡れてますよ、あなたの涙で私の手枕の袖は。〕
とおっしゃるが、式部は何事につけてもただただ割り切れないほどの深い縁を感じるばかりで、ご返事申し上げようという気持もしないので、何も申し上げずにいた。こうしてただ月影の中で涙を落としている式部を、宮はなんともいじらしいとご覧になり、「どうして返事もなさらないのですか。私がとりとめないことを申し上げるので、気にいらないようにお思いでしたでしょう。なんともいじらしいこと」とおっしゃるので、式部は「どうしましたことでしょうか、身も心も乱れる気がするばかりでどうにもならないのです。お言葉が耳に入らないのではありません。どうぞ見ていてください、『手枕の袖』とおっしゃったことを私が忘れる時がありましょうか」と、冗談めかして言い紛らわす。
 しみじみと趣深かった夜の様子もこんなふうに過ぎたのであったろうか。
 翌十月十一日の朝、宮は、式部には自分以外に頼りになる男はいないようだと気の毒にお思いになり、「ただ今どうしておいでですか」とお便りなされたので、式部はご返事に、
  けさの間に今は消ぬらむ夢ばかりぬると見えつる手枕の袖
〔今朝のうちに、今ではもう消えてしまっているでしょう、夢のように儚い仮寝に私の涙で少しばかり濡れたあなたの手枕の袖は。〕
と申し上げた。
 宮は「『手枕の袖を忘れません』といったとおりで、趣きある歌だ」とお思いになって、ご返事する。
  夢ばかり涙にぬると見つらめどふしぞわづらふ手枕の袖
〔夢を見るあいだだけの儚い涙に濡れた程度とあなたはお思いでしょうが、あなたの涙でびっしょり濡れてその上に伏しかねるほどでした、私の手枕の袖は。〕
【「涙」は心の思いを語り伝えるもの、深い想いの形見です。また、寝具として使われた「衣(袖)」には、直接的でエロチックな意義も重なります。「袖を交はす」「袖を継ぐ」「袖を重ねる」は、情交の美的な表現です。ですから「手枕の袖」は熱き恋(情交)の象徴といえます。】

 十月十日の夜の空の風情がしみじみと身にしみて思われたので、宮のお気持ちが動いたのだろうか、それ以降、宮は、いじらしいと気がかりに思われて、しばしば式部邸においでになって、式部の様子をご覧になりめんどうを見るということをお続けになるが、式部が噂と違って男馴れている女性ではなく、ただもう頼りになげに見えるにつけても、たいそういじらしいとお思いなさって、しみじみと語り合い情を交わしていらしたが、
「そんなふうにあなたはものさびしく物思いにふけっていらっしゃるようですが、思い定めることはないのですが、今はただもう何も考えず我が邸にいらっしゃってください。周囲の人も私の行いを似合わしくないと非難しているようです。私が時々にしか参上しないからでしょうか、他の男の姿が見えたこともないけれど、周囲の人がたいそう聞き苦しい噂を伝えるうえに、また何度もあなたのお邸に足を運んでもとぼとぼと帰る時の気持ちはもうやるせなかったのですが、それも、自分が一人前の男扱いされていない気がしておりましたので、『どうしようか』と思うこともしばしばありましたが、私の古風な人柄からでしょうか、あなたへお手紙を差し上げることが絶えるのをたいそうつらく思われておりましたが、そうかといって、このようにお邸に参上し続けることはできそうもないのでして、本当に、周囲の人が私の行状を耳にして制止することなどがありますから、『わするなよ程はくもゐになりぬともそらゆく月のめぐりあふまで[拾遺集](私のことを忘れないでください、離れた距離は地上と雲との遠さに離れても、空行く月がいつか雲にめぐりあうように、その時まで。)』という歌のように、次に逢うのがいつになるかわからなくなってしまうでしょう。もしおっしゃるとおりにものさびしいのでしたら、我が邸にいらっしゃってはどうですか。妻などもおりますが、不都合なことは起きますまい。もともと私は、こんなふうに出歩くわけにはいかない身分だったせいでしょうか、誰もいないところに膝をつきあわせて座るような女の人もいないし、仏事のお勤めするときでさえ、たったひとりでいるのですから、あなたと同じ気持ちでお話して情を交わし申し上げることが出来たら、私の心が慰められることがあるのではないか、と思うのです」などと宮がおっしゃるにつけて、
 本当にいまさらそんな慣れない暮らしがどうして出来ましょうなどと式部は思い、更に、「宮のお兄様師貞親王に宮仕えするお話もそのままですし、そうかといって『み吉野の山のあなたに宿もがな世のうきときのかくれがにせむ[古今集](吉野山の彼方に住処があったらいいのに、そうしたら俗世がつらいときの隠れ家にしょう。)』の歌にある山の彼方に道案内してくれる人もいないし、このままこの邸で過ごすについては、『人しれぬねやはたえするほととぎすただ明けぬ夜の心ちのみして[清正集](ほととぎすの人知れぬ場所で鳴く声(独り寝)が絶えることがあろうか、明けない夜の中をさまようなような悲しみのうちに)』の歌のように、明けることのない闇に迷っている気がするので、つまらない戯れをいって言い寄ってくる男も多くいたから私をけしからぬ女のように世間で評判しているようだが、そうかといって、宮以外に格別に頼りになる男もいない。さあどうしたものだろうか、宮のおっしゃるとおりにお邸に行ってみようか。北の方はいらっしゃるけれど、ただもう邸内で別々に住んでおいでで、万事身の回りの世話は御乳母がしているそうだし、私があらわに人目につくように出て言い広めでもするなら別だろうが、適当な目立たない場所にいるなら、どうして差し障りがあろうか。少なくとも、私に他の男がいるという濡れ衣はいくらなんでも立ち消えになるだろう」と思って、
 式部は宮に、「何事もただもう『あはれと思へ山桜花より外に知る人もなし〔前大僧正行尊〕(山桜よ、あわれと思ってくれ。お前の外に私を理解する人はいないのだから)』の歌ではありませんが「私を知る人はいない」とばかりと思いながら過ごしております間の慰めとしては、このような折に、たまにでも宮様のおいでを待ち申し上げて、ご返事申し上げることよりほかにございませんので、ただもうどうでも宮様のおっしゃるとおりに、とは思いますが、別れ別れでいても世間はきっと私とのお付き合いを見苦しいことに申しているでしょう。まして私がお邸に上がったら、やはり噂はほんとうだったと世間が見でもしたら、いたたまれなく。」と申し上げると、
 「それは私の方こそあれこれ言われましょうが、あなたのことを見苦しいとは誰が思いましょう。うまく目立たない場所を用意して、お知らせ申しましょう」などと頼りになりそうにおっしゃって、まだ夜が明けぬうちにお帰りになる。
 式部は格子を上げたままでいたが、「このまま一人宮のおでましを待って端近に伏していてどうなろうか、また、愛人の身で宮のお邸に上がったら物笑いの種になるだろうか」などといろいろ思い乱れながら横になっているところに、宮のお手紙が届く。
  露むすぶ道のまにまに朝ぼらけぬれてぞ來つる手枕の袖
〔露が降りた道をたどりながら、あなたの涙で濡れたままの手枕の袖を更に別れの辛い涙と朝の露に濡らし着て、想いを深くして帰ってきました。〕
例の、手枕の袖の誓いはたわいもない話に過ぎないのに、お忘れにならずに手枕の袖にからむ歌を下さるのも心にしみる。式部はすぐにお返しする、
  道芝の露におきぬる人によりわが手枕の袖もかわかず
〔道端の芝の露が結ぶ時に起きて行ったあなたのせいで、私の手枕の袖も涙で濡れたままで乾かないままです。〕
 
 その夜の月がたいそう明るく澄み切っているので、式部の方でも宮の方でも月を眺めながら夜を明かして、翌朝、いつものように宮はお手紙をお送りになろうとして、「小舎人童は出仕しているか」とお尋ねになっている間に、式部の方でも、霜があまりに白いのにはっとしてのことだろうか、
  手枕の袖にも霜はおきてけりけさうち見れば白妙にして
〔私の手枕の袖にも霜は置いております、今朝起きて見ると真っ白なんですよ。〕
と、宮のもとにお手紙を差し上げた。
 宮は、悔しいことに先に手紙を送られてしまったと、お思いになり、
  つま恋ふとおき明かしつる霜なれば(けさうち見れば白妙にして)
〔あなたを恋い慕って起き明かした私の思いを置いた早朝の霜なので、真っ白なんですよ。〕
と、返歌を作っていらっしゃる、まさしくその時に小舎人童が参上したので、ご機嫌が悪いまま、どうしたのかとお尋ねになるので、取り次ぎの者は、「早く参上しないから、宮様はひどくお責めなのだろう」と思うように童にお手紙を与えたので、童は式部のもとに持っていって、「まだ式部様のもとから宮様にお便り申し上げなさらないうちに、宮様は私をお呼びでいらしたのに、私が今まで参上しなかったといって叱ります」といって、お手紙を取り出した。
 「昨夜の月はたいそう美しいものでしたね」と宮は記し、
  ねぬる夜の月は見るやとけさはしもおき居て待てど問ふ人もなし
〔あなたは寝てしまって月は見ていませんでしたか、共寝した夜の月を見ていましたか、今朝は霜が置く時間まで起きてあなたの手紙が届くかと思って待っていたけれど、私のもとには持ってくる人もいません(ですから、こちらから手紙を送りました。〕
とあるので、「本当に、宮様が先に歌をお読みだったようだ」と見るにつけても興をそそる。
  まどろまで一夜ながめし月見るとおきながらしも明かし顔なる
〔うとうともせず一晩中私が眺めた月をあなたも見ていると、霜が置くなか宮様が起きたままで夜を明かした証をたてようとしていますが、ほんとうでしょうか〕
と式部は申し上げて、このお使いの童が、「宮にひどく叱られました」というのがおかしくて、手紙の端に、
  「霜の上に朝日さすめり今ははやうちとけにたる気色見せなむ
〔霜の上に、朝日が射しているようです、だから霜も融けているでしょうから、いまとなってはもう、この童を許している様子を見せてあげてほしいものです〕
童がたいそう困り果てているそうですよ」と書いた。
 宮からは、
 「今朝あなたが先を越して得意顔でおっしゃるのもたいそうくやしいことです。その原因を作ったこの童を殺してしまおうかとまで思います。
  朝日影さして消ゆべき霜なれどうちとけがたき空の気色ぞ
〔朝日の光が射すと消える定めの霜ではあるが、霜は融けても、まだまだ気を許せない空の様子ではないが、なかなか許してやれない私の気分です。〕」
とお便りがあるので、式部は「お殺しになるおつもりとは、なんと」と思って、
  君は来ずたまたま見ゆる童をばいけとも今は言はじと思ふか
〔あなたはいらっしゃらず、代りにたまに姿を見せて私の心を慰めてくれる童を、私のもとへ行け(生きろ)とももはやおっしゃらないつもりなのでしょうか〕
と式部が申し上げると、宮はお笑いになられて、
  「ことわりや今は殺さじこの童しのびのつまの言ふことにより
〔なるほどおっしゃるとおりです、今となってはもうこの童を殺すまい、人に知られぬ妻であるあなたのお言葉にしたがって。〕
この童のお話しばかりで、『手枕の袖』の思いをお忘れになってしまわれたようですね」とお返事なさる。そこで式部が、
  人知れず心にかけてしのぶるを忘るとや思ふ手枕の袖
〔誰にも知られないようにして心に賭けてひたすら恋い慕っていますのに、私が忘れるとあなたはお思いですか、あの「手枕の袖」の夜を。〕
と申し上げたところ、宮のお返しは、
  もの言はでやみなましかばかけてだに思ひ出でましや手枕の袖
〔私のほうからお話ししないままでしたら、あなたは決して思い出しもなさらなかったでしょう、私がたいそう心震わせた「手枕の袖」の夜を。〕

⑩ 
十、檀(まゆみ)の紅葉
 こうしてこの後、ニ三日、宮からはなんのご連絡ございません。「宮邸へいらっしゃいと頼もしげにおっしゃったことも、こんなふうではどうなってしまったのだろうか。」とあれこれ思いつづけているので、式部は寝ることもでず、目を覚ましたまま横になっていますと、夜も随分と更けたようだと思っている頃に、誰かが門を叩きます。「誰からか、心当たりもないのに。」と思いますが、何者かと問わせると、なんと宮からのお手紙でございました。思いもしない時刻にお手紙をくださったので、『夜な夜なは眼のみさめつつ思ひやる心やゆきておどろかすらむ[後拾遺集](毎晩毎晩目は覚めてばかりであなたのことを思っている私の心が飛んで行って、あなたのことを目覚めさせているのでしょうか)』と歌にあるように心通じて私が宮様を目覚めさせて歌を下さったのだろうか、と、妻戸を押し開けて月の光のもとに読んでみますと、
  「見るや君さ夜うち更けて山のはにくまなくすめる秋の夜の月
〔見ていらっしゃるでしょうか、あなたは、夜が更けたこの時間に、山の端に曇りなく澄んでいる秋の夜の月を。〕」とあります。
 思わず月を眺め、またこの歌を繰り返し口ずさみますと、いつもよりもしみじみと宮のことが思われます。
 門も開けずに宮のお手紙を受け取ったので、お使いが待ち遠しく思っているだろう、と思って、式部はすぐに返事を記します。
  「更けぬらむと思ふものからねられねどなかなかなれば月はしも見ず
〔今ごろはもう夜も更けてしまったのだろうと思うものの私は眠れません。しかしだからといって、月を見るとかえってあなたを思い出してつらいので、月だけは見ないことにしています。〕」
 こう式部がすぐに返してきましたので、同じように月を眺めていると返してくる予想が外れた気がして、「やはり放っておくことのできないひとだ。なんとかして私の近くに置いて、こんな風流なやりとりを聞きたいものだ。」と宮はご決心なさいます。

 二日ほどして、宮は女性の乗る車飾りにして、そっと忍んでいらっしゃいました。
 日の出ている明るい中などでは、まだ顔をご覧になることはなかったので、式部はきまりわるく思いますが、みっともないといって恥ずかしがって隠れなければならない間柄でもありません。また、おっしゃるようにお邸へお迎え入れくださる話が本当なのならば、恥じらい申し上げているわけにもいかないのではないかと思いまして、式部はにじり出でて出迎えました。宮は、ここ数日のごぶさたに気がかりだったことなどを親しげにお話になって、しばし横たわりお抱きなさってから、
 「先日申し上げたとおり、早くご決心なさい。こうした外出が、いつまでも物慣れなく思われるのですが、そうかといって、こちらに参上しないでいると不安で、定まらない私たちの仲は、苦しいばかりです。」とおっしゃいます。
 式部は「どうであれおっしゃるとおりにしようとは思いますが、『みても又またもみまくのほしければ馴るるを人はいとふべらなり[古今集](付き合い始めは、逢っても再び逢いたくなるものだから、親しくなりすぎるのをひとはいやがるのにちがいありません)』という歌にあるとおり、お邸に上がったら、飽きられてしまうのではないかと思って思いわずらっているのです」と申し上げます。
 すると、宮は、「よろしい、見ていてください。『伊勢のあまのしほやきごろもなれてこそ人の恋しきこともしらるれ[古今六帖](伊勢の海人が塩焼く時に着る衣が「褻(な)る」ように、馴れ親しんでこそ、相手が恋しいという気持ちは自然と理解されるものです)』また、『志賀のあまのしほやき衣なるるとも恋とふものは忘れかねつも[万葉集](琵琶湖の海人が塩焼く時に着る衣が「褻(な)る」ように、いくら馴れ親しんでも、恋心というのは忘れ難いものです)』とあるように逢い慣れてこそ恋は優るでしょう。」とおっしゃられ、部屋をお出になりました。
 式部の部屋の前近くの透垣のあたりに、美しい檀(まゆみ)の紅葉が、少しだけ紅くなっているのを、宮はお手折りになられ、高欄に寄りかかりなさって、
  「ことの葉ふかくなりにけるかな
〔いろいろ言葉を交わしているうちに、この葉の紅みが深くなったように私たちの言葉も色濃くなりましたね。〕」
と、下の句を口になさいます。式部は連歌として上の句を、
  「白露のはかなくおくと見しほどに
〔白露がちょっと降りたように見えただけ、そのようにかりそめのお言葉をいただいただけだと思っていますうちに、〕」
と、申し上げます。その式部の様子を、なんとも情篤く風流で趣き深い、と宮はお思いになられます。
 また、その宮のご様子もたいそうすばらしいのです。御直衣をおめしになって、なんともいえないほど美しい袿(うちき)を下から覗かせなさっているご様子は、この上なく好ましく理想の男性に見えます。その姿をうっとり眺める式部は自分の目までも色好みになっているのではないか、という気さえするのです。

 翌日、「昨日昼間訪れたときのあなたが見苦しく気恥ずかしいとお思いのご様子は、つらくはありましたが、いじらしくしみじみ心惹かれました。」と宮からお手紙がありますので、式部が、
  「葛城の神もさこそは思ふらめ久米路にわたすはしたなきまで
〔「かづらきの久米路にわたす岩橋のなかなかにてもかへりぬるかな[後撰集](役の行者に命じられた葛城神は自分の醜さを恥じて夜しか仕事せず久米路に渡す橋が中ほどまでしかかけられませんでしたが、その橋のようにあなたのもとに行く途中で帰ってしまいましたよ)」の歌にあるように葛城の神は、昼間に姿を見せるのは「はしたなし(中途半端できまりわるい)」ときっと思ったのでしょう、私もそう思うのです、〕
どうしようもなくきまりわるく感じました」と申し上げますと、折り返し宮から、
  「行ひのしるしもあらば葛城のはしたなしとてさてややみなむ
〔私に役の行者のような神通力がありましたならば、葛城の神がきまりわるいと思ったようにあなたが昼間は恥ずかしいと言うのをそのままにしましょうか、あなたに、きまりわるいと思わせないようにします。〕」
などとお返事があり、以前よりは時々おいでになったりしますので、式部はこのうえもなくものさみしさが慰められる気持がします。

 こうしているうちに、また、よくない色好みな男たちが手紙を送ってよこし、また本人たちもやって来て門前をうろついたりするにつけても、悪い噂が立ったりしますので、宮の元に参上しようかしらと思いますが、あいかわらず気後れしていて、式部はきっぱりとも決心がつきません。

 霜がたいそう白い早朝、式部が、
  「わが上は千鳥もつげじ大鳥の羽にも霜はさやはおきける
〔私の境遇は「鳳の羽に、やれな、霜ふれり、やれな、誰がさいふ、千鳥ぞさいふ、かやくきぞさいふ、みそさぎぞ京より来てさいふ[風俗歌・大鳥の歌]」の千鳥も大鳥ならぬあなたに告げてくれないでしょうが、大鳥の羽根のようなあなたの袖にも霜は置き、私が起き明かしたようにあなたも起きておられましたか。〕」
と申し上げますと、宮が、
  「月も見でねにきと言ひし人の上におきしもせじを大鳥のごと
〔月も見ずに寝てしまったといったあなたの袖の上に霜は置きもしていないでしょう、大鳥ならぬ私のようにはあなたは起きてなかったでしょう。〕」
とおっしゃられて、間もおかずその夕暮れにおいでになられました。
 またの日、「最近の山の紅葉はどんなに趣き深かいでしょう。さあいらっしゃい、見に行きましょう。」とおっしゃるので、「たいそう楽しい話のようです。」と式部はご返事申し上げましたが、当日になって、「今日は物忌みですので。」と申し上げまして、式部が邸に留まっていますので、宮は「なんとも残念だ。この時節を過ごしたら花はきっと散ってしまうでしょう。」とおっしゃいます。
 しかしその夜の時雨はいつもよりも強く、木々の木の葉が残りそうもなく激しく聞こえますので、目を覚まして、「日をへつつ我なにごとをおもはまし風の前なるこのはなりせば[和泉式部続集](私が風の前にある木の葉だったら、日々を過ごすにあたって私は何を悩む必要があったでしょうか(木の葉は悩みなく散ってゆくきますが、それがうらやましいことです。)」などと口ずさんで、「紅葉はきっとみな散ってしまっているでしょう。昨日見ないで残念なこと。」と思いながら夜を明かします。
 早朝、宮から、
  「神無月世にふりにたる時雨とやけふのながめはわかずふるらむ
〔神無月にはあたりまえすぎる時雨、夜に降っていた時雨というのか、今日の長雨は特別なこともないように降っていますが、これは私の涙です。今日の眺めをあたりまえのものとして特別な思いを持たずにあなたは過ぎる時を過ごしているのでしょう。〕
残念なことに紅葉は散ってしまったでしょう。」とお手紙がありました。
  「時雨かもなににぬれたる袂ぞとさだめかねてぞわれもながむる
〔 時雨なのでしょうか、何で濡れた私の袂でしょうか、あなたを思って流した涙かもしれないと決めかねて、私も一晩中物思いにふけって時雨を見ながら明かしました。〕」
と式部がお返しし、さらに、「ほんとうにおっしゃるとおり、
  もみぢ葉は夜半の時雨にあらじかしきのふ山べを見たらましかば
〔紅葉した葉は、夜中の時雨できっと散ってしまったでしょう、昨日あなたと山辺を見ていればよかったのですが。〕」
と送りましたのを、宮は御覧になり、
  「そよやそよなどて山べを見ざりけむけさはくゆれどなにのかひなし
〔まったくそのとおりです。どうして昨日山辺を見に行かなかったのでしょう、今朝となっては、悔いてもなんの意味もないでしょう。〕」
とおっしゃいまして、その手紙の端に、
  「あらじとは思ふものからもみぢ葉の散りや残れるいざ行きて見む
〔紅葉はもうないだろうとは思いますが、もしかしたら紅葉した葉が散り残っているかもしれません、一緒に行って見てみましょう。〕」
と書き記されておりますので、式部もお返事を記します。
  「うつろはぬ常磐の山も紅葉せばいざかし行きてとうとうも見む
〔紅葉するはずのない常緑の山でももし紅葉することがありましたら、さあ一緒に行ってたずねたずねてみたいもの、けれどそんなことはないでしょうから。〕
今行っても愚かなことでございましょう。」

 先日宮がいらしたときに、「差し障りがあってお相手申し上げられません」と申し上げたことを宮はお思い出されて、
式部が、
  「高瀬舟はやこぎ出でよさはることさしかへりにし蘆間分けたり
〔「みなといりの葦わけ小舟さはり多みわが思ふ人にあはぬ顔かな[拾遺集](水の流れが狭くなっているところに葦を分け入って入る小舟にさまたげが多いので、私の愛しているあなたに逢えないことです。)」の歌の障りもなくなりました、高瀬舟を早く漕ぎ出していらしてください、舟のさまたげだった葦の間を掻き分けてあなたのお越しをお待ちしておりますから。〕」
と申し上げましたことに対して、宮は「お忘れになったのですか、
  山べにも車に乗りて行くべきに高瀬の舟はいかがよすべき
〔山辺にも車に乗って紅葉を見に行くはずなので、高瀬舟ではあなたのもとに寄せることはできません。〕」
と詠んでこられましたので、
  「もみぢ葉の見にくるまでも散らざらば高瀬の舟のなにかこがれむ
〔山の紅葉が車で見に来る時までも散らないで待っているのならば、どうして紅葉に惹かれたりしましょう。紅葉狩りに高瀬舟を漕いでどうしましょう。私もまたあなたの来ないうちに散ってしまいましょうか。散るから恋焦がれるのです、どうぞ恋焦がれている私の所においで下さい。〕」
と式部はご返歌いたします。

⑪ 
十一、車宿り
 その日も夕暮れになりましたので、宮はおいでになり、式部側が方塞(ふた)がりなので、目立たないように式部邸から連れ出しなさいます。
 この頃は、四十五日の忌を避けようとなさって、宮は、従兄に当たられる道兼息兼隆(従三位右中将)邸にいらっしゃいます。それでなくてさえ物慣れない場所に行くことになりますので、「見苦しいことです。」と式部は申し上げますが、宮はむりやり連れていらして、式部を車に乗せたまま、誰の目にも付かない車宿りに車を引き入れて、式部を置いたまま宮だけがお邸にお入りになりましたので、車の中に取り残された式部は、恐い、と思います。宮は人が寝静まってからいらっしゃいまして、車にお乗りになって、いろいろと将来にわたることをおっしゃられて契られました。事情を知らぬ宿直の男たちがあたりを歩き回ります。いつもの右近の尉や小舎人童は近くにお仕えしています。
 宮が、式部のことをしみじみといとしいものとお思いになるにつけても、いいかげんに過ごしてきた今までの態度を後悔なさるにしても、まことに身勝手なお振る舞いではあります。
 夜が明けると、宮はすぐに式部邸にお送りなさり、誰も起きないうちにと急いで従兄の邸にお帰りになられて、早朝のうちに、
  「ねぬる夜の寢覚めの夢にならひてぞふしみの里をけさはおきける
〔独りで寝る夜が続いて夢で寝覚める生活に慣れてしまって、あなたと伏して夢を見るはずなのに(伏見の里で)、共寝した夜なのに今朝は早々と起きてしまったことです。〕」
と後朝の歌を下さいますので、式部はお返しに、
  「その夜よりわが身の上は知られねばすずろにあらぬ旅ねをぞする
〔あなたと共寝したその夜から、私の境遇はどうなるものとも分からないので、意外なことにとんでもない車で明かすというような旅寝をしてしまいました。〕」
と申し上げます。
 「こんなにも激しく身にあまる宮のお気持ちを、気付きもしないでつれない態度で振舞っていてよいものだろうか。他の事などはたいしたことではあるまい。」などと式部は思いますので、「宮のお邸に上ろう。」と決心します。宮の元に住み込むなどするものではないとまじめな忠告をする方々もいますが、耳にも入りません。「どうせつらい身なので、運命にまかせて生きてみよう。」と思うにつけても、「宮の元に住み込むという形での宮仕えは、私の望みというわけでもない。『いかならむいはほのなかに住まばかは世のうきことのきこえ来ざらむ[古今集](いったいどこの洞窟で暮らしたら、俗世のいやな噂が聞こえてこないだろうか。)』の歌のように、いっそのこと出家して嫌な噂の聞こえてこない場所で暮らしたいが、またそこでいやなことがあったらどうしましょう、ほんとうに本心からの出家ではないように人々は思ったり言ったりするだろうから、やはりこのまま出家せずに過ごしてしまおうか、親・兄弟の近くでお世話を申し上げたり、また昔のまま変わらないように見える娘(小式部内侍)の将来をも見定めたい。」と式部は思い立ちましたので、「せめて宮のお邸に上がり申し上げるまでは、困った不都合な噂をなんとかして宮のお耳にはいれさせまい。お近くでお仕えしていたら、変な噂が立ったとしても、きっと真実のほどはおわかり下さるでしょう。」と思い、言い寄ってきていた男たちの手紙に対しても、「いません。」と侍女たちにいわせて、まったく返事もしないのでした。

 宮からお手紙があります。見ますと、「いくらなんでも他に男の方はいまいとあなたをあてにしていましたが愚かなことです。」などとだけ書いて、ほとんどなにもお書きにならず、「人はいさ我はなき名のをしければ昔も今もしらずとをいはむ[古今集](あなたはさあ、どうだか分かりませんが、私は浮き名の立つのが惜しいので、昔も今もあなたとは無関係だと言い張りましょう。)」とだけ書いてあるので、式部は胸つぶれるほどに驚き、嘆かわしく思います。今までも目も当てられない嘘の噂が沢山出てきましたが、「いくら噂が立ったとしても、実際にしてないことについてはどうしようもない。」と思いながらやりすごしていましたのに、今回は、本気で疑っていらっしゃるので、「宮のもとに上がろうと決心したことを耳にしたひともいるだろうに、宮に見捨てられるという愚かな目を見ることになりそうだ。」と思いますと悲しくて、ご返事申し上げようという気にもなれません。一方、それにしてもどういう噂を宮はお聞きになったのだろうか、と思うにつけてきまりわるくて、式部がご返事も申し上げないでいますので、宮は、「さっきの手紙にきまりわるがっているようだ。」とお思いになられて、「どうしてご返事も下さらないのですか。このままでは『噂どおりです』と思ってしまいます。こんなにも早く心変わりなさるものなのですね。ひとの噂を耳にしたけれど、『まさかそんなことはあるまい』と思いながら、『人言はあまのかる藻にしげくとも思はましかばよしや世の中[古今六帖](人の噂は海人の刈る藻のようにたくさんあっても、あなたが私を愛してくれればそれだけでいいのです、人の言うことなど問題ではありません。)』と思ってお手紙申し上げたのですが。」とお手紙がありますので、式部は少し気持ちが晴れて、宮のお気持も知りたく、どんな噂かも聞いてみたくて、
 「本心で私のことをお思いでしたら、
  今の間に君来まさなむ恋しとて名もあるものをわれ行かむやは
〔今この時にあなたにいらしてほしいのです、いくら恋しく、あかしを立てたく参上したいといっても、噂が立つでしょうから、私からお邸に行くわけにはまいりません。〕」
と申し上げますと、宮から、
  「君はさは名の立つことを思ひけり人からかかる心とぞ見る
〔あなたはそれでは私とのことで噂になることを心配なさっているのですね、他の男とは平気なのに、私とのかかわりで噂が立つのを嫌がるのがあなたの気持ちと分かりました。〕
名(噂)が立つからとは、腹さえ立ちました。」とあります。
 お邸に上がりかねている様子をご覧になられて、宮がきっとおふざけをなさっているのだろうと式部は思い、お手紙を見ますが、やはりつらく思われて、「やはりとても苦しいのです。どんな形でも私の心をご覧に入れたいものです。」と式部は申し上げました。
 すると宮からは、
  「うたがはじなほうらみじと思ふとも心に心かなはざりけり
〔あなたを疑うまい、やはり恨みごとは申すまい、と思っても、私のその信じる気持に私の疑いの心がついていかないのです。〕」
とあります。
 式部がそのご返事に、
  「うらむらむ心はたゆな限りなく頼む君をぞわれもうたがふ
〔私を恨んでいらっしゃるお気持ちを絶やさないでください、私もこのうえなく信頼しているあなたのことを疑っているのですから。それが恋というものでしょう。〕」
と申し上げます。
 こんなやり取りをしているうちに、日が暮れましたので宮がおいでになりなした。
 宮は「やはりあれこれ讒言するひとがいるので、まさかそんなことはあるまい、と思いながらも、疑いを記してしまったのですが、このような悪い噂を立てられまいとお思いなら、さあ、我が邸においでください。」などとおっしゃられて、夜が明けましたのでお帰りになられました。
 こんなふうに絶えずお手紙はお書きになりますが、足をお運びになることはなかなか難しいのです。
 雨がひどく降ったり風がはげしく吹いたりする日にも、宮が見舞ってくださらないので、「住む人も訪れる人も少ない淋しい我が家での風の音の侘びしさを思いやってくださらないらしい。」と思って、夕暮れころに式部がお手紙をさしあげます。
  「霜がれはわびしかりけり秋風の吹くにはをぎのおとづれもしき
〔霜枯れはなんともさみしいことです(あなたのお気持ちが「離(か)れ」たのはつらいこと)、秋風が吹いているころには荻の葉ずれの音もしたのに(秋ごろは、私が「招(を)ぎ」ましたら宮も「訪れ」てくださいましたのに)。〕」
と申し上げましところ、宮からご返事がありました。そのくださったお手紙を見ますと、
 「たいそうぶきみな風の音を、あなたはどう聞いておいでだろうと気の毒に思っております。
  かれはててわれよりほかに問ふ人もあらしの風をいかが聞くらむ
〔冬になり枯れ果てて、男たちも離(か)れてしまって、私以外に見舞う人もいないでしょうから、荒々しい嵐の風の音をあなたはどういうお気持ちで聞いていらっしゃるでしょう。〕
あなたの様子を思い心配申すことは実に大層なものです。」とあります。
 他に男がいないとまでおっしゃらせてしまったと読むのもなんともおかしいこと、と式部は思うのでした。
 
 方違えの御物忌みのために、人目を忍んだ処にいらっしゃるからと、いつものようにお迎えの車が来ますので、「今となってはもう宮がおっしゃるのならなんでもそれに従って。」と思いますので、宮のお忍びの場所に参上しました。
 心穏やかに宮はお話しなさり、式部も起きても寝てもお話し申し上げますし、ものさみしさもまぎれますので、宮のお邸に参上したいと思ったのでした。御物忌みが過ぎましたので、式部は住み慣れた自分の邸に帰ってきますと、この日のことがいつもの別れよりいっそう名残惜しく恋しく思い出され、やむにやまれませんので、歌を差し上げます。
  「つれづれとけふ数ふれば年月のきのふぞものは思はざりける
〔今日つらつらと思い出の日々を思い数えてみますと、長い年月の中でお逢いしていた昨日だけはつらい思いをしませんでした。〕」
 宮はご覧になってしみじみといとしくお思いになられて、「私も同じです。」とおっしゃり、
  「思ふことなくて過ぎにしをととひときのふとけふになるよしもがな
〔何の物思いもつらい思いもなしに過ごした一昨日と昨日の幸せが、今日になる方法はないものでしょうか。〕
そう思うだけではどうにもなりません。ですからやはり我が邸に入ろうとご決心なさい。」とおっしゃいます。
 しかし、式部はひどく気後れして、すっきりと決心がつかないまま、ただ物思いにふけって日を過ごします。
 いろいろに色づいて見えた木の葉も散り果てて、空は明るく晴れているものの、だんだんと沈み切ってしまう陽射しが心細く思われますので、式部はいつものようにお便り申し上げます。
  「なぐさむる君もありとは思へどもなほ夕暮れはものぞ悲しき
〔私を慰めてくださるあなたがいらっしゃるとは思うのですけれども、やはり一人こうして冬の日の暮れていきますのはなんとも悲しいものです。〕」
とありますので、宮は、
  「夕暮れは誰もさのみぞ思ほゆるまづ言ふ君ぞ人にまされる
〔夕暮れは誰もがそんなふうにさみしく思われるものです、しかし誰よりも先にそれを口に出すあなたが、誰よりもさみしく感じているのでしょう。〕
と思うにつけてもお気の毒です。すぐにでも伺いたいとは思いますが、‥。」とお返しします。

 翌日のまだ早い時間で、霜がたいそう白い時に、宮から「今のお気持ちはいかが。」とお手紙がありますので、式部は
  「おきながら明かせる霜の朝こそまされるものは世になかりけれ
〔あなたのお越しを待って起きたままで夜を明かしました。とうとうお見えにならなかった今朝は冷たく霜が降りて、これ以上にひどい悲しみはこの世になかったことです。〕」
などと言い交わし申し上げます。
 いつものように宮はしみじみしたお言葉をお書きになります。
  「われひとり思ふ思ひはかひもなしおなし心に君もあらなむ
〔そちらへ行くこともならず、私がたったひとりであなたを恋しく思って悩みに悩んでも甲斐がありません、あなたも同じ気持ちで私を恋しく思って悩んでほしいものです。〕」
 これへの式部のご返事。
  「君は君われはわれともへだてねば心々にあらむものかは
〔私は宮様のように「あなたはあなた、私は私」と区別してもいませんので、二人の心が別々でありましょうか、いや、決して別々であろうはずはございません。〕」

 こうしているうちに式部が風邪だったのでしょうか、おおげさではありませんが苦しんでいましたので、宮が時々見舞ってくださいます。
 なんとかよくなってきたころに、「ご気分はいかがですか。」と宮がおたずねくださいましたので、式部が、「少しよろしくなっております。しばらく生きてお側にいたい、と思ってしまいましたことが罪深く思われますが、それにいたしましても、
  絶えしころ絶えねと思ひし玉の緒の君によりまた惜しまるるかな
〔宮様のお運びが絶えてしまったころは、絶えてしまえと思っていた私の命でしたが、こうしてお会いしますと宮様の愛情によって命を繋ぐ緒が再び惜しく生き長らえたいと思われます。〕」
と申し上げますと、宮は、「たいへんなことでした、ほんとうにほんとうに。」とおっしゃって、
  「玉の緒の絶えむものかは契りおきしなかに心はむすびこめてき
〔あなたの命を繋ぐ緒が絶えるはずはありません、あなたとの仲も絶えることはありません。将来を約束した私たちの仲に(中に)変わらぬ心はしっかり結び込めてあるのですから。〕」
とお返しなさいます。
 このように言い交わしているうちに、年も残り少なくなりましたので、宮のもとには春の頃に参上しよう、と式部は思います。


⑫ 
十二、雪降る日
 十一月の初め頃、雪がひどく降る日に、宮から、
  「神代よりふりはてにける雪なればけふはことにもめづらしきかな
〔神の世からずっと降りつづけてもう降り尽きたと思われる雪ですから、今日はことさら新鮮に感じられます、あなたのことを思いながら雪を見るのは初めてですし。〕」
とありますで、式部は、
  「初雪といづれの冬も見るままにめづらしげなき身のみふりつつ
〔初雪が降るのは目新しいものと毎年見ていますが、目新しくもない我が身だけは、時がふり、古るびつづけると嘆かれます。〕」
などとお返したり、とりとめのないやりとりをしながら、日々を暮らし明かします。
 宮からお手紙があります。「ずいぶんごぶさたで気がかりになりましたから、お邸におうかがいしてと思っていましたのに、周りののものらが漢詩(ふみ)を作るようなので行けなくなってしまいました。」とおっしゃいましたので、式部が、
  「いとまなみ君来まさずはわれ行かむふみつくるらむ道を知らばや
〔暇がないので宮様がいらっしゃれないというのなら、私の方から行きましょう。そのために、漢詩(ふみ)を作るというあなたのもとへ踏みつけて行く道筋を知りたいものです。〕」
と詠みますと、宮は、おもしろく思われてお詠みになります。
  「わが宿にたづねて来ませふみつくる道も数へむあひも見るべく
〔我が家にどうぞ訪ねて来てください、そうしたら漢詩(ふみ)を作る方法もお教えしましょう、なにはさておき相逢うために。〕」

 いつもよりも霜のたいそう白く置く朝に、「どう思ってご覧になっていますか。」と宮がおっしゃいますので、式部がお返しした歌。
  「さゆる夜の数かく鴫はわれなれやいくあさしもをおきて見つらむ
〔「暁の鴫のはねがきもも羽がき君が来ぬ夜は我ぞ数かく[古今集](夜明け前のシギが何百回も羽根を嘴で掻いていますが、あなたがいらっしゃらない夜に私はなんども身悶えしています。)」という歌の冴え冴えとした夜に何度ももがいているシギは私のことをいっているのではないでしょうか、宮様のおいでのない朝を私はこれまで幾朝、霜を置く時間まで起きて見ていたでしょうか。〕」
 そのころ、雨がはげしく降りましたので、更にこんな歌も送ります。
  「雨も降り雪も降るめるこのころをあさしもとのみおき居ては見る
〔雨も降り雪も降っているような冬のこの何日かを、おいでのない宮様を待って、ご愛情が浅いのだと私は夜を起き明かしては朝の霜を見ています。〕」

 その夜、宮がおいでになられて、いつものようにとりとめないお話をなさるにつけても、「私の邸にあなたをお連れ申し上げてからあと、私が寺にでも行ったり、法師にでもなったりして、姿を見せ申し上げなくなったら、裏切られたとお思いになるでしょうか。」と心細くおっしゃいますので、「どのようにお考えになるようになってしまわれたのだろうか。もしかしたらそんなことが起こりそうなのだろうか。」と思いますと、たいそう身にしみて悲しくて、思わず泣いてしまいます。
 霙(みぞれ)めいた雨が静かに降る時です。
 式部が泣いてしまったので、少しも眠らず、宮は来世に渡ってまでしみじみとお話になり、お契りになります。「情愛深く、どんなことでもこころよくお話しになさって私を疎んじないご様子なので、私の心の中もお目にかけよう。」と思い立ちもするものの、「宮が出家なさったら、私もこのまま出家するばかりのこと。」と思うと物悲しくて、何も申し上げずにしみじみと泣いていましたが、その様子を宮はご覧になられて、
  「なほざりのあらましごとに夜もすがら
〔とりとめない将来を口にしたばかりに、一晩中、〕」
と上の句をおっしゃるので、式部が下の句を付けます。
  「落つる涙は雨とこそ降れ
〔落ちる涙は雨が降るように流れました。〕」
 宮のご様子は、いつもより頼りなげな感じで、そうしたことを口になされて、やがて夜が明けたのでお帰りになられました。

 「この先これといった希望があるわけではないが、ものさびしさを慰めるために宮のお邸に上がる決心をしたのに、その上宮が出家なさったらどうすればよいだろうか。」などと式部は思い悩んでお手紙をさし上げます。
  「うつつにて思へば言はむ方もなしこよひのことを夢になさばや
〔宮が出家なさるという話を現実だとして考えると、私は生きていきようもありません、だから、今宵のお話を夢にしてしまいたいものです。〕
と私は思いますが、どうしてそんなことをお考えなのでしょう。」と記して、端に、
  「しかばかり契りしものをさだめなきさは世のつねに思ひなせとや
〔あんなにもしっかりとずっといっしょにいようと約束しましたのに、定まりのないこの世のことですから、世にありふれたとるにたりない約束だったと思うようにせよとおっしゃるのでしょうか。〕
残念なことに思われます。」とありますので、宮はご覧になり、「まず私から後朝のお手紙を差し上げようと思っていたのに先にお便りをいただきまして、
  うつつとも思はざらなむねぬる夜の夢に見えつる憂きことぞそは
〔出家の話は現実のこととも思わないでいただきたい、それは二人で寝た夜の悪夢に見えたつらいことなのですから、〕
私たちの仲を定め無き無常のものと思い込もうというのですか、なんと気の短いことでしょう。
  ほど知らぬ命ばかりぞさだめなき契りてかはすすみよしの松
〔終わりのわからない寿命だけは定めようがありません、しかし、それまでは、『われ見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松いく代へぬらむ[古今集](私が見ても悠久なことはわかります、住吉の岸の小さな松は人間の何世代分を過ごしてきたのだろうか。)』の枝を交わしている住吉の松のように、永遠の約束を交わして共に暮らしましょう。〕
私の愛しい方よ、将来の出家の話はけっして二度と口にいたしますまい。自分からまねいたことで、なんともやりきれません。」とお便りなさいます。
 式部はその後、物悲しく感じるばかりで、つい溜息をつくしかありません。早くお邸に上がる準備をしていたらよかった、と思います。
 昼頃、宮からお手紙が届きます。見ると、「古今和歌集」の歌が記してあります、
  「あな恋し今も見てしが山がつの垣ほに咲ける大和撫子 
〔ああなんとも恋しいことです、今すぐに逢いたい、山中の垣に咲いている大和撫子のような可愛いあなたに〕『古今和歌集』(恋四の六九五番))」
 「あら、なんとも狂おしいほどのお気持ち」と式部は思わず口にして、やはり「伊勢物語」の歌で、
  「恋しくは来ても見よかしちはやぶる神のいさむる道ならなくに
〔私のことが恋しいのでしたら、どうぞ私のうちにいらして逢ってください、神様がだめと禁止している道ではないのですから。〕『伊勢物語』(第七十一段)」
と式部がご返事申し上げますと、宮はふっと笑ってご覧になられます。
 最近、宮はお経を繰り返しお読みになっていらしたので、
  「あふみちは神のいさめにさはらねどのりのむしろにをればたたぬぞ
〔近江路を通ってあなたに逢うのは神の禁忌には触れませんが、私は今仏事の席におりますので、出かけるわけにはまいらないのです。〕」
とおっしゃいます。式部がご返事に、
  「われさらばすすみて行かむ君はただ法のむしろにひろむばかりぞ
〔それなら私の方からすすんで行こうと思います、あなたはひたすら仏道の教えに連なり教えを広めているばかりですので。〕」
などと申し上げて日を過ごします。
 雪が、ひどく降って、木の枝に降り掛かっていますので、その枝に歌をつけて、宮が、
  「雪降れば木々の木の葉も春ならでおしなべ梅の花ぞ咲きける
〔雪が降ると、木々の木の葉も春ではないのに、いっせいに梅の花が咲いているようです。〕」
と詠んでこられたので、式部がご返歌します。
  「梅ははや咲きにけりとて折れば散る花とぞ雪の降れば見えける
〔梅ははやくも咲いたのだと思って手折ってみると散ってしまいました、雪が降るのはまるで散る梅の花びらのように見えたことです。〕」

⑬ 
十三、宮の邸へ
 翌朝早く、宮から、
  「冬の夜の恋しきことにめもあはで衣かた敷き明けぞしにける
〔冬の夜の間、あなたが恋しいせいで目もつむらないで、あなたにお逢いもできず衣の袖を片方しいた独り寝のままで夜が明けてしいました。〕」
とありますので、式部はお返しに、「ほんとうにおっしゃるとおり、
  冬の夜のめさへ氷にとぢられてあかしがたきを明かしつるかな
〔冬の夜の寒さで目さえ凍る涙で閉じられて開けるのがつらく、明かし難い夜を明かしてしまったことです。〕」
などと詠んでいましたが、いつものようにこうしたとりとめもない歌でものさびしさを慰めながら日々を過ごすのは、なんとも甲斐もない虚しいことではなかったでしょうか。
 宮はどうお思いになったのでしょうか、心細いことばかりをおっしゃられて、「やはり私はこの世の中(あなたとの情愛)を長く通すことはできないのでしょうか。」と記してありますので、
  「くれ竹の世々の古ごと思ほゆる昔語りはわれのみやせむ
〔呉竹の節(よ)ならぬ世々(よよ)に伝わる古い恋物語が思い起こされます、宮と別れた後で、宮との思い出を私ひとりが昔語りするのでしょうか。〕」
と式部が申し上げますと、
  「くれ竹のうきふししげき世の中にあらじとぞ思ふしばしばかりも
〔呉竹の節(ふし)のように辛い節々のたくさんあるこの二人の仲ではもういたくないと思います、ほんのしばらくのあいだでも。〕」
などと詠んでこられまして、「誰にも気付かれないよう住まわせるところなどでは、住み慣れないところなので式部はきまりわるがるだろう、こちらでも聞き苦しい話だというに違いない。だが、今はもう私自身が行って連れて来よう。」とお考えになられて、十二月十八日、居待ちの月がたいそう美しい時に、宮は式部のもとにいらっしゃいました。
 いつものように宮が「さあいらっしゃい」とおっしゃいますので、式部は、いつものように今夜だけのお出かけと思って、一人で車に乗ると、「誰か侍女を連れていらっしゃい。あなたの身の回りの世話をするひとを連れて行けたら、のんびりとお話申し上げられましょう。」とおっしゃいますので、「ふだんは、数日にわたる時でもこんなふうにおっしゃったこともないのに、もしかしたらそのままお邸にとお思いなのであろうか。」と思って、侍女を一人連れて行きます。
 いつものところではなくて、侍女を置いても目立たなく気兼ねないようにしつらえてあります。やはりそうだったと式部は思って、「どうして目立つようにわざわざお邸に上がることがあろう、かえって、いつのまに上がったのだろうと、みんなが思ってくれたほうがよい。」などと思ううちに、夜が明けましたので、櫛の入った化粧箱などを取りに遣わします。

 宮が部屋に入っておいでなので、しばらく目立たないようにこちらの格子は上げないでいます。暗いのは恐ろしくはありませんが、うっとうしい気分でいますと、宮が、「今にあちらの北の対屋にお移し申し上げましょう。この場所では外に近いので情趣がありません。」とおっしゃいますので、格子を下ろして、ひっそりと音を聞いてみますと、昼間は、女房たちや父・冷泉院にお仕えする殿上人らが参り集ってきます。「どうしてこのままここに置いておけましょう。また、身近に私の日常を見たらどんなにがっかりなさるだろう、と思うとつらいのです。」とおっしゃいますので、「私も近くで見られたらがっかりされるかもしれないと思っています。」と申し上げますと、宮はお笑いになって、「まじめなはなし、夜などに私があちらにいるときはお気をつけください。とんでもないやからが興味本位にあなたを覗き見たりしたら大変です。もうしばらくしたら、例の宣旨の乳母のいる離れにでもおいでになってごらんなさい。めったなことでは、そこには誰も寄って来ませんから。そこにも逢いにまいります。」などとおっしゃいます。
 二日ほどして、宮が北の対屋に式部を連れていらっしゃることになりましたので、お邸の侍女たちはびっくりして、北の方に報告申し上げますと、「こんなことがないときでさえ、宮の振る舞いは見苦しかったけれど、なんら高貴な人でもないのに、こんなことをなさって。」と北の方はおっしゃり、「格別のご寵愛があるからこそひそかに連れていらしたのだろう。」とお思いになるにつけても、得心もできず、いつもよりもご不快でいらっしゃいます。一方、宮も当惑なさって、しばらくは北の方のもとにはいらっしゃいませんで、家の人々の噂も聞き苦しく、また北の方はじめ人々の様子も辛いので、もっぱら式部のもとにいらっしゃいました。
 北の方が宮に、「こういうことがあると聞きますが、どうしておっしゃってくださらないのですか。私がお止め申し上げられることでもありません。ほんとにこのように我が身が人並みの扱いでなく笑いの種になって恥ずかしくたまらないのです。」と泣きながらお話し申し上げなさいましたので、「侍女を召し使おうとするのに、あなたにお心当たりがないはずはありません。あなたのご機嫌が悪いのにつれて、侍女の中将などが私をうとましく思っているのが不快なので、髪などを梳かせようと思って呼んだのです。こちらでも呼んでお使いなさい。」などと宮が北の方に申し上げなさいますので、北の方は、ひどく不愉快にお思いになりながらも、それ以上は何もおっしゃいません。
 こうして数日立つうちに、式部はお仕えしなれて、昼でも宮のお近くにお控えします。髪を整えて差し上げたりしますから、宮はいろいろにお使いになさいまして、少しも宮の前から遠ざけなさいません。宮が北の方のお部屋に足をお運びなさることもまれになってゆきます。一方、北の方が思い嘆きなさることはこのうえありません。

⑭ 
十四、北の方の退去
 年が変わって正月元日、冷泉院の拝礼の式に、朝臣がたが数の限りを尽くして参院なさいます。宮も列席されているそのお姿を拝見しますと、たいそう若々しくてお美しく、多くの貴族の方々以上に優れていらっしゃいます。このお姿につけて、自分のみすぼらしい身分がきまりわるいと式部には感じられます。
 北の方付きの女房たちが縁に出て座って見物していますが、ご列席の方々を見ずに、まず「噂の式部を見よう」と明かり障子に穴を開けて大騒ぎしていますのは、ひどく見苦しいことではありました。
 日が暮れましたので、行事がみな終わりまして、宮は冷泉院の南院にお入りになりました。お見送りにきて公卿方が数の限りを尽くしておすわりになられて、管絃のお遊びがあります。そのたいそう趣き深いのにつけても、式部にはものさみしくわびしかった自邸での暮らしがまず思い出されます。
 こうして式部が宮のお邸でお仕え申し上げていますうちに、身分の低い下仕えの召使いたちの中でも、聞き苦しいことをいうのを宮はお聞きになられ、「こんなふうに北の方がお思いになったりおっしゃったりしてよいはずはない。あまりにひどい。」と不愉快に思われましたので、北の方のお部屋にいらっしゃることもまれになっていきます。式部は、自分のせいでこんな状態にあるのをたいそうきまりわるく、いたたまれなく思われますが、どうしょうもないと、ただひたすら宮がとりはからいなさるのにしたがって、宮にお仕えしています。

 北の方の姉君は、東宮の女御としてお仕えなさっています。その方が、実家に下がっていらっしゃいます時でしたが、お手紙が北の方に届きます。「何とかしてこちらにいらっしゃい。最近、人の噂になっている話は事実なのですか。あなただけでなく私までも人並み以下に扱われているように思われます。夜の内にこちらにいらっしゃい。」とありますので、北の方は、これほどのことでなくてさえ人は噂するものものを、ましてどんなことが言われていることかとお思いになられると、たいそうつらくて、お返事に、「お手紙いただきました。いつも思い通りにはいかない男女の仲ですが、最近は実際に見苦しいことまでおこっております。ほんのわずかのあいだでも、姉君のもとにおうかがいして、若宮様たちのお顔を拝見申し上げて、心を慰めたいと存じます。迎えをおよこしください。ここにいるよりは、つまらない話を耳にすることはないでしょうと思われまして。」などと申し上げなされて、実家に帰るのに必要な調度類をまとめさせなさいます。
 北の方は、見苦しくきたならしい所を掃除させなされて、「しばらく里のもとにいるつもりです。このままここに私がいても、おもしろくなく、宮様にしても私のもとに足をお運びになられないこともご負担でいらっしゃるでしょうから。」とおっしゃいますと、周りの女房たちが口々に、「たいへん驚きあきれたことです。世間の人々が変な噂であざけり申し上げておりますよ、」「あの女がこちらに参りましたことについても、宮様が足をお運びになってお迎えになったそうなのですが、まったく目もあてられないありさまです、」「あのお部屋にあの女はいるのでしょうよ。宮様は、昼間っから三度も四度も足を運んでいらっしゃるそうです、」「ほんとうにちゃんと宮を懲らしめ申し上げなさいませ。宮様があまりに北の方様をないがしろになさっていらっしゃるから、」などと一斉に憎まれぐちを言いますので、それを聞く北の方はお心の中でたいそうつらくお感じになられます。
 「もうどうでもよい、近くに見苦しいこと聞き苦しいことさえなければ。」と 北の方は お思いになり、「お迎えに来てください。」と姉君に申し上げなさいます。やがて、北の方のお兄様にあたられる方が、「女御様からのお迎えです。」と宮に申し入れなさいますので、「そういうことか。」と宮はお思いになられます。
 北の方の乳母が部屋にある見苦しいものを掃除させているという話を聞いて、女房の宣旨が宮に、「こんなふうにして北の方様はお移りになられるようです。決して、ついちょっとという様子ではありません。東宮様(宮のお兄様)のお耳に入ると具合の悪い話でもあります。いらっしゃって、お止め申し上げてください」と騒がしく申し上げていますのを見るにつけて、式部はお気の毒で辛いのですけれど、自分からあれこれ口出ししてよいものでもないので、そのまま黙って聞いてお仕えしておりました。聞きづらい話の出ている間はしばらく退出していたいとは思いますが、それもやはり情けないようなので、そのままお仕えしておりましたが、それにつけてもやはり物思いの絶えない我が身だと嘆かわしく思うのでした。
 宮が北の方のお部屋にお入りになると、北の方は、何気ない様子をしていらっしゃいます。「本当ですか、姉君である女御様のもとへいらっしゃると聞きましたが。どうして車を出すようにと私におっしゃらなかったのでしょうか。」と宮が北の方に申し上げなさいますと、北の方は「別にどうということではありません。先方から車をよこすから、とありましたので。」とだけいって後はなにもお話しなさりません。

  宮の北の方のお手紙とか、北の方の姉君の女御様のお手紙の言葉などは、実際はこのままではないでしょう。想像の作り書きのようである、と原本には書いてあります。      
                      ・完・
                和泉式部日記〔口語訳〕完

その後のこと 
 こうして日記は式部が宮の邸に行ったところで終わります。
 宮の邸での生活がどのようなものであったか。その喜びと華やかさは語られていません。
 また、それがこの日記を一層引き立てて面白くしています。
 しかし、実際は彼女のこの幸せも長くは続きはしませんでした。四年ほどで帥宮は二七歳の若さで病没します。残された彼女のはげしい慟哭は百首を超える哀傷歌に充分語られていて、それを読者も知っているということだったのでしょう。
 この物語は帥宮と式部の恋の賛歌と哀悼の記録なのです。


 式部の親王哀悼の歌を拾ってみます。

今はただそよそのことと思ひ出でて忘るばかりの憂きこともがな
【帥宮に先立たれた今はただ、「そう、そんなことがあった」と楽しいことを思い出しては泣くばかりで、いっそ宮のことを忘れたくなる程に辛い思い出があればよかったのにと思われます。】

捨て果てむと思ふさへこそかなしけれ君に馴れにし我が身とおもへば
【捨て切ってしまおうと、そう思うことさえ切ないのです。あの人に馴染んだ我が身だと思いますと。】

かたらひし声ぞ恋しき俤はありしそながら物も言はねば
【語り合った声こそが恋しいことです。面影は生きていた時そのままですが、何も言ってくれませんので。】

はかなしとまさしく見つる夢の世をおどろかでぬる我は人かは
【儚いものだと、まざまざと思い知った夢の如き世ですのに、この世から目を醒まさず眠りをむさぼっている私は人と言えましょうか。】

ひたすらに別れし人のいかなれば胸にとまれる心地のみする
【まったく別世界へ逝ってしまった人が、どうしてか私の胸にいつまでも留まっている心地がしてなりません。】

君をまたかく見てしがなはかなくて去年(こぞ)は消えにし雪も降るめり
【あなたを再びこんなふうに見てみたいのです。はかなくて去年には消えてしまった雪も年が巡ればまた降るようですから。】

なき人のくる夜ときけど君もなし我がすむ宿や玉なきの里
【亡き人が訪れる夜だと聞きますけれど、あなたもいらっしゃいません。私の住まいは「魂無きの里」なのでしょうか。】


 親王が二七歳の若さで男の子一人(後、出家して永覚と名乗りました)を残して亡くなったとき、式部は三十歳でした。
 喪が明けて三一歳のとき道長から声がかかり、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の女)のもとに出仕します。成人していた娘の小式部内侍も一緒だったでしょう。その華やかなサロンは源氏物語そのままで、紫式部や伊勢大輔・赤染衛門も仕えていました。この折のことは、また別の物語でしょう。
 式部は三三歳のとき、宮仕えが機縁となって道長の家臣(家司)で五十歳を過ぎた穏和な藤原保昌と再婚し、保昌について大和や丹後に赴きました。
 やっと平穏な日常に身を置くことの出来た式部でしたが、四八歳の時には愛する一人娘の小式部に先立たれるという不幸に出会います。
 没年は不明(五七~五九歳)ですが最後まで保昌と共に暮らしたのではないでしょうか。
 なお、式部を初代の住職とする京都の誠心院では三月二一日に和泉式部忌の法要があります。


 和泉式部関連年表
 年号(西暦) 数え齢  出来事
貞元元 (976)     居貞親王(三条天皇)生まれる(冷泉院:超子
貞元2 (977)     為尊親王(弾正宮)生まれる(冷泉院:超子)
天元元 (978) 1歳  和泉式部・前後3~4年に生まれる(大江雅致:平保衡女)
天元3 (980) 3歳  6月懐仁親王(一条天皇)生まれる(円融天皇:詮子)
天元4 (981) 4歳  敦道親王(帥宮)生まれる(冷泉院:超子)
天元5 (982) 5歳  1月、冷泉院女御超子 薨去
永観2 (984) 7歳  8月、花山天皇即位
寛和2 (986) 9歳  6月、一条天皇即位、
           7月、居貞親王元服、立太子
永祚元 (989) 12歳 11月、為尊親王 元服
正暦元 (990) 13歳 7月、藤原兼家(62歳)薨去
正暦2 (991) 14歳 〔女+成〕子(藤原済時女)東宮妃として入内
正暦3 (992) 15歳 為尊親王 九の御方(藤原伊尹女)と結婚
正暦4 (993) 16歳 2月、敦道親王 元服
           敦道親王 藤原道隆三女と結婚
長徳2 (996) 19歳 和泉式部、橘道貞と結婚
長徳3 (997) 20歳 小式部 生まれる(橘道貞:和泉式部)
長保元 (999) 22歳 夫・道貞 和泉守に任ぜられる
           11月、彰子(藤原道長女)入内
長保2(1000) 23歳 12月、皇后定子(24歳)崩御
長保3(1001) 24歳 弾正宮との恋はこの頃
長保4(1002) 25歳 6月13日、弾正宮(26歳)薨去
長保5(1003) 26歳 4月十余日、帥宮と、橘の贈答歌。帥宮と初めて契る。
           12月10日、帥宮の南院に入る
寛弘元(1004) 27歳 1月、帥宮妃(藤原済時女で東宮妃〔女+成〕子の妹)南院を出る
           2月、藤原公任の白河院で帥宮とお花見
           3月、道貞 陸奥守に任ぜられ赴任
寛弘2(1005) 28歳 賀茂祭を帥宮の車に同乗して見学
寛弘2(1005) 29歳 石蔵宮(永覚)生まれる(帥宮:和泉式部)
寛弘4(1007) 30歳 10月2日、帥宮(27歳)薨去
           性空上人没
寛弘5(1008) 31歳 2月8日、花山院(41歳)崩御
           和泉式部、中宮彰子に出仕~1011
寛弘7(1010) 33歳 和泉式部、藤原保昌(20歳ほど年上)と結婚
寛弘8(1011) 34歳 6月、一条天皇(32歳)崩御。三条天皇即位
           10月、冷泉院(62歳)崩御
長和5(1016) 39歳 2月、後一条天皇即位
           4月、橘道貞没
寛仁元(1017) 40歳 5月、三条院(42歳)崩御
寛仁2(1018) 41歳 静円 生まれる(藤原教通:小式部)
万寿2(1025) 48歳 11月、頼仁 生まれる(藤原公成:小式部)
           11月、小式部(28歳)没
万寿3(1026) 49歳 1月、太皇太后彰子 落飾して上東門院と号する
万寿4(1027) 50歳 10月、式部、皇太后妍子の七々日供養に歌を献上
           12月、藤原道長(62歳)、藤原行成(56歳)薨去
長元9(1036)(59歳) 9月、藤原保昌(79歳)没
       和泉式部の没年は不明、一説には、長元7年(1034年)頃
 式部を初代の住職とする京都の誠心院では三月二一日に和泉式部忌の法要がある。


 あとがき
 二〇〇八年(平成二〇)の暮れに、「来年は丑かと思いながら、うしは『憂し』に通ずといやな言葉が連想されたのは、この世情によりましょうか。それで、『呉竹の憂き節繁き世の中に(思うようにならずつらいことの多いこの世の中)』の句を思い出したのでした。しかしこれが、和泉式部日記にあると探し出すのに時間がかかりました。節の枕詞として呉竹があるのですが、年末あたりの記述ですから呉が暮れに掛けてあると思っていたらしい。」とブログに書いた後、テキストをアップし更に欲を出して訳も試みていました。「プログ製本サービス」というものがあることを知って、一時ブログにアップし本にしてみたのですが、本にする機会に全面的に文体等手を入れました。
            平成二十二年三月 雛祭りの日。


森鷗外の「舞姫」の口語訳

 
「舞姫」森鷗外
【口語訳】原文(文語文)が読みづらい人のための現代語訳。
 口語訳を読んだ後ぜひ原文で読んでください。調べと薫りが違います。
  
構成
 ①… 一、 帰国の途中、一人船に残り、愁いに沈む
    二、 回想記 生い立ちから恋愛の悲劇的結末まで
 ②…   起 ⅰ生い立ち
 ③…     ⅱドイツ留学の三年間
 ④…   承 ⅰエリスとの出会い
 ⑤…     ⅱエリスとの恋愛の深まり 免官と母の死
 ⑥…     ⅲエリスとの同棲 通信員の生活
 ⑦…   転 ⅰエリスの懐妊、相沢との再会
 ⑧…      ⅱロシア行き
 ⑨…   結 ⅰ帰国の承諾、エリスへの罪悪感
 ⑩…     ⅱエリス裏切りを知り発狂
 ⑪… 三、 回想記を終えての感慨




 ①石炭は早くも積みおわったようす。二等船室のテーブルの辺りは人けもなく静かで、白熱電灯の灯りが白々と明るく輝いているのもかえって虚しく感じられる。いつも晩にはここに集まってくるトランプ仲間も、今夜ばかりは陸のホテルに宿を取っていて、船に残っているのは私一人なのだった。
 いまから五年前のことになるが、日頃の念願がかなって官から渡欧のことをおおせつけられ、このサイゴンの港まで来たころは、見るもの聞くもの、すべてが新鮮な印象であった。その時、興にまかせて書き散らした旅行記は毎日どれほどの多さであったろう。どれも当時の新聞に載せられて世間の人々にもてはやされたものだが、今になって思えば子供めいた考え、身のほどをわきまえない言いたい放題、でなければありきたりの動植物や鉱物や、はては風俗習慣などまでもを珍しそうに書き記していた。それらを、分別ある人はいかに見たであろうか。
 それに比べ、この度の帰国の途上に日記をつけようと買ったノートがまだ白紙のままなのは、ドイツで学問をしていた間に、冷淡で虚無的な性質を身につけたからであろうか。いや、これには別にわけがあるのだ。
 実際、東に向かって戻る今の私は、かつて西に向かって船出した昔の私ではない。学問だけはいまだ満ち足りないところも多いけれども、世間のつらさや悲しさも知った。人の心の当てにならないのは言うまでもなく、この自分の心までがいかに変わりやすいものであるかもよく思い知ることが出来た。昨日良しとした物の見方・考え方を今日は否定していると言うような、私自身の時々の変容を、紙に写してだれに見せようか。これがすなわち日記の書けない由来なのか。いやいや、これには別にわけがある。
 ああ、ブリンジイシイの港を出航してから、すでに二十日余りを過ごした。普通なら初対面の旅客に対しても親しく交際し、たがいに旅の暇な辛さをなぐさめあうのが航海の通例であるのに、身体の不調のせいにして船室のうちに閉じ籠もってばかりいて、同行の人たちにも口を利くことが少いわけは、人に知られぬ苦しい思いに心を悩ませていたからだ。この苦しい思いは、はじめは一ひらの雲のように心をかすめていて、スイスの美しい山なみも目に映ることなく、ローマの古蹟にも心をとどめさせないのみか、時を経るとやがてこの世が厭になり、さらにわが身をもはかなんで、はらわたがねじり切れるほどの痛みを感じ、今は心の奥に凝り固まって、一点の影とばかりになったものの、それでも本を読む度に、あるいは物見るごとに、鏡に映る影法師かあるいは声に応じるこだまのように、限りなく昔を懐かしむ思いを呼び起こして、幾度となく私の心を苦しめる。
 ああ、どうしたらこの苦しい思いを消し去ることができようか。これがほかの嘆きであったなら、詩や歌に詠んだあとはきっと気持ちもすがすがしくなるであろう。こればかりはあまりに深く私の心に刻み込まれたのでそれもなるまいと思うけれども、今夜はあたりに人もいない、ボーイが来て明かりを消していくまでにはまだ時間もありそうなので、その概略を文章につづってみることにしよう。

 ②私は幼いころから厳しい家庭教育を受けたかいがあって、父をはやくに亡くしたけれども学問が後退してしまうこともなく、旧藩の学校にいたころも、東京に出て大学予備門に通っていたころも、大学法学部に入った後も、太田豊太郎という名前はいつも同学年の首席に書き記されていたので、一人っ子の私を頼りとして暮らす母は心安らいでいたであろう。
 十九歳で大学を早くも卒業し、学士の称号を受けたとき、大学創立以来いまだかつてない名誉であると人にも言われ、そして官庁に奉職して、故郷の母を首都東京に呼び迎え、楽しい年月を送ること三年ばかり、上官の受けも格別であったので、ついには「外遊して課の事務を調査せよ。」との命令をうけ、わが名を上げるのもわが家を興すのも今こそと心が勇みたって、五十歳を越えた母に別れるのもそれほど悲しいとも思わず、はるばると故国を離れてベルリンの都までやってきた。

 ③私は、漠然とした名を挙げたいという思いと、自己を抑制して努力し勉強する力とをもって、たちまちこのヨーロッパの新興の大都市の中央に立った。
 わが目を射るのはなんという輝き、心を惑わそうとするのはなんという美しさ。「菩提樹の下」と訳してしまうと、ひっそり静かな所のように思われるが、このまっすぐな髪のように延びている「ウンテル・デン・リンデン」の大通りに来て、左右の石畳の歩道を歩む幾組もの男女の群れをご覧なさい。まだ皇帝ヴィルヘルム一世が街路に臨む宮殿の窓から街をご覧になっていたころのことで、胸を張り、肩をそびやかした士官が色とりどりに飾り立てた礼装をしている姿や、麗しい娘がパリ風の化粧をしているさまは、どれもこれも驚きの目をみはらないものはない。更には、車道のアスファルトの上を音もさせずに走るさまざまの馬車、雲にそびえる高楼が少しとぎれた処には、晴れた空に夕立のような音を響かせてあふれおちる噴水の水、遠く望めばブランデンブルク門をへだてて緑の木々が枝を交わしているなかから空に浮かび出た凱旋塔の守護女神像など、おびただしい景観が目の前にひしめき集まっているのだから、初めてこの地を訪れた者が見るもの聞くものに次々と心奪われてしまうのももっともなこと。
 しかし、私の胸にはたとえいかなる場所に旅しても害ある余計な美観には心を動かされまいとの堅い決意があり、いつも迫ってくるこれら華やかな外からの誘惑を絶ちきっていた。

 私が呼び鈴を鳴らして案内を求め、国からの紹介状を出して日本から来たとの意を告げるとプロシア国の役人は、みな快く迎えてくれ、「大使館の手続きさえ無事に終わったならば、何なりと教えも伝えもしましょう。」と約束した。うれしかったのは、私が故国においてすでにドイツ語もフランス語も学んでいたことだ。彼らははじめて私に会ったとき、どこでいつの間にこれほどに習得したのかと尋ねないことはなかったのである。
 さて、公務の暇がある度に、前もって正式の許可も得ていたので、現地の大学に入って政治学を修得しようと、学籍簿に名を載せる手続きを取った。
 ひと月ふた月と過ごすうちに、公式の打ち合わせも済んで、取り調べもだんだんはかどっていったので、急ぎの件は報告書を作って本国に送り、急ぎでもないその他のものは手元に資料を写しとどめるというようにして、ついにはそのノートが何冊になったことだろう。大学の方では、自分の幼稚な考えで予想していたような政治家を養成する学科などのあろうはずもなく、あれかこれかと思い惑いながらも、二・三の法学者の講座に出ることを決めて、授業料を納め、聴講に出かけたのだった。

 こうして三年ほどは夢のように過ぎていったが、来るべきときが来ればどんなに隠しても隠しきれないものは人の好みというものなのだろう。
 私は父の遺言を守り、母の教えに従い、人が神童だなどとほめるのがうれしさに怠けることなく学問に精を出したころより、上官が「良い働き手を得た」と激励する喜ばしさに怠りなく勤務を続けてきた時まで、ただひたすら受動的、機械的人物になってみずから悟らなかった。しかし、いま二十五歳になって、すでに久しくこちらの自由な大学の風潮に感化されたせいか、心の中がなんとなく穏やかでなく、奥深くに潜んでいた真実の自分が、次第に表にあらわれて、昨日までの偽りの自己を攻撃するかのようだった。
 私は自分がいまの世の中に時めく政治家になるには適当でなく、また立派に法律書を暗唱して判決を下す法律家になるにもふさわしくないことを悟ったと思った。
 私はひそかに考えた。母は私を生きた辞書にしようとし、上官は私を生きた法律にしようとしたのではないか。生き字引であることはそれでも可能であるが、歩く法律となるのはとうてい我慢がならない。今まではごく些末な問題にもきわめて丁寧に返答してきた私がこのころから上司に寄せた手紙には法律の細部にとらわれるべきでないことをあれこれ言い立て、「ひとたび法の精神さえ学びえたならば、あれやこれやの細かなことは一気に解決できるものだ。」など堂々と言い立てたこともあった。また大学では法科の講義はおろそかにして、人文・歴史に心を寄せて、そろそろ面白みも分かる域に達してきた。
 上官はもともと意のままに使うことのできる機械を作ろうとしたのだろう。独自の考えを抱いて、人並みでない偉そうな顔つきをした男をどうしてこころよく思うはずがあるだろうか。あやうかったのは、そのころの私の地位であった。しかしながら、こればかりではまだ私の地位をくつがえすには足りなかったのだが、日ごろベルリンの留学生のうちで、ある勢力あるグループと私との間におもしろくない関係があり、その人たちは私を嫉妬し疑い、またついに私にぬれぎぬを着せて陥れるに至った。しかし、これとても理由なくてのことではなかった。
 その人たちは私が一緒にビールのジョッキを取り上げず、玉突きのキューも取らないのを、頑固で一途な心と自制の力のせいにして、一方ではあざけり、又一方では嫉妬しもしただろう。しかし、これは私を知らないからだった。
 ああ、この理由は、自分自身さえ気づかなかったものを、どうして他人に知られるはずがあったろうか。私の心はあの合歓という木の葉に似て、物が触れれば縮んで避けようとする処女に似ていた。私が幼いころから年長者の教えを守って、学問の道をたどった時も、仕官の道を歩んできた時も、どれも勇気があって精進してきたのではない。継続努力の勉強の力と見えたのも、すべて自分を欺き、人までも欺いたのであり、ただ人がたどらせた道を一筋にたどっただけなのだ。他の方面に心が乱れなかったのは、ほかのものを捨ててかえりみないほどの気概があったからではなく、ただもうほかのものを恐れて自分の手足を自分でしばっていただけなのだ。故国を出る前も、自分が前途有望な人物であることを疑わず、また自分がいかなる困難にも耐えられる意志の持ち主だと深く信じていた。ああ、それもつかのまのことだったのだ。船が横浜を離れるまでは、あっぱれ豪傑よと思っていた自分が、こらえきれない涙に思わずハンカチを濡らしたのをわれながら不思議なことと思ったが、これこそがまさに自分の本性だったのだ。この心は生まれつきなのであろうか、それとも、父を早く失って母の手に育てられたことによって生じたのだろうか。
 彼らがあざけるのはもとよりしかたがない。しかし、嫉妬するのは愚かなことではないか。この弱く、かわいそうな心を。
 赤く白く顔を塗って、きらびやかな色のドレスを身にまとい、酒場に座して客を呼ぶ女たちを見ても、そこに行って共にふざける勇気なく、また山高帽をかぶり、眼鏡で鼻を挟むようにして、プロシアでは貴族まがいの鼻音でしゃべる洒落者を見かけても、これと遊び回る勇気もない。これらの勇気がないので、あの活発な同郷人たちと交際しようもない。この交際下手のために、彼らは単に私をあざけり、または嫉妬するにとどまらず、さらには私をうたがったり、ねたんだりするに至った。これこそ、私が無実の罪を負って、わずかの間にはかりしれない苦難を味わい尽くすきっかけとなったものなのだった。

 ④ある日の夕暮れのこと、私は動物公園を散歩して、ウンテル・デン・リンデンを通り過ぎ、モンビシュウ通りの自分の下宿に帰ろうとして、クロステル小路の古い教会の前まで来ていた。
 大都会の灯火の海を渡って、このクロステルの狭く薄暗い横丁に入ると、階上の手すりに干したシーツやシャツなども取り込まずにいる人家や、頬ひげを伸ばしたユダヤ教徒の年寄りが前に佇んでいる居酒屋、また一つの階段が屋上まで通じ、もう一つの階段が穴蔵住まいの鍛冶屋に通じている貸家などがある。それらの建物に向かい合って凹字の形に引っ込んで建っている三百年前の遺跡と思えるこの古寺を眺めるたびに、我を忘れてうっとりと立ち尽くしたことはこれまで幾度あったろう。
 丁度この場所を通り過ぎようとするとき、教会の閉ざされた門扉にもたれたまま、声をおさえて泣いている一人の少女を見た。年のころは十六七であろうか。頭にかぶったスカーフからもれ出ている髪は淡い金色で、着ている衣服は垢じみたり汚れている感じもない。私の足音に驚かされてふりかえった顔は・・・私には詩人の筆力もないのでここに写すことができない。この青く清らかで、もの問いたげに悲しみを帯び、なかば涙の露を宿した長いまつげにおおわれたその眼は、どうしてただ一度こちらを見たばかりで、この用心深い私の心の底までつきとおしたのだろうか。
 彼女は思いがけない深い悲しみに遭って、あとさきの事情を顧みる余裕もなく、ここに立って泣いているのだろうか。いつもの私の臆病な心も憐れみの情がうち勝って、私はふとそばに寄った。
「どうして泣いていらっしゃるのですか。こちらにわずらわしく面倒な知り合いもない他国の者のほうが、時によってはかえってお力を貸しやすいかもしれません。」
 思わず言葉をかけたが、われながら自分の大胆なのにあきれてしまった。
 彼女は驚いてこの黄色人の顔を見つめていたが、私のまじめな気持ちが顔色にも表れていたのであろう。
「あなたは良い人だと思います。あの人のようにむごくはないでしょう。また私の母のようにも。」
 しばらくとだえていた涙は、また泉のようにあふれて愛らしい頬を流れ落ちた。
「私をお救いくださいませ、私が恥しらずの人間になってしまうのを。母は私があの人の言葉に従わないからといって、私をぶちました。父は死んだのです。明日はお葬式を出さなければならないのに、家には一銭のたくわえもないのです。」
 あとはすすり泣きの声ばかり。私の目はこのうつむいた少女のふるえるうなじにばかり注がれていた。
「あなたのお家までお送りしましょうから、まず気持ちを落ち着けなさい。泣く声を人に聞かせるものではありません。ここは往来なのですから。」
 彼女は話をするうちに、知らず知らず私の肩に身をよせていたが、この時ふと頭をあげ、はじめて私を見たかのように、恥じて私のかたわらを飛びのいた。
 人に見られるのを避けて足早に行く少女のあとについて教会の筋向かいの大きな戸を入ると、ひび割れた石の階段がある。これを昇って四階目にくると、腰を曲げてくぐれるほどの戸がある。少女は、錆びた針金の先をねじ曲げて作った把手に手をかけて強く引いた。中でしわがれた老人の声がして「誰だい。」と聞く。
「エリスが帰りました。」と答えるほどもなく、戸を乱暴に開いたのは、半ば白髪の、人相は悪くないが貧苦のあとを眉間の深い皺に刻み込んでいる老女で、古ぼけたネルの上着に、汚れた上ばきを履いていた。エリスが私に会釈して中に入るのを待ちかねたように、戸を激しく閉てきった。
 私はしばらく呆然として立っていたが、ふとランプの光に透かして戸を見ると、エルンスト・ワイゲルトとペンキで書いた表札の下に仕立物師と注記してある。これが亡くなったという少女の父親の名前なのだろう。戸の内では言い争うような声が聞こえていたが、また静かになって、戸が再び開いた。先ほどの老婦がまた現れ、今度は丁寧に自分の非礼のふるまいを詫び、私を中へ招き入れた。中はすぐに台所で、右手の低い窓には真っ白に洗った麻布を掛けてある。左手には粗末に積み上げたレンガのかまどがある。正面の一室は戸が半分開いているが、中には白布をおおった寝台がある。横たわっているのは亡くなった人なのであろう。
 かまどの横の戸を開いて私を案内した。この場所はいわゆる屋根裏部屋の街路に面した一室なので、天井もない。隅の屋根裏から窓に向かって斜めに下がっている梁を壁紙で張ってある下の、立てば頭がつかえそうなところに寝床がある。中央にある机には美しい敷物を掛けて、上には書物一、二冊とアルバムを並べ、陶器の花瓶にはここに似合わしくない高価な花束を活けている。そのそばに少女はきまりわるげに立っていた。
 彼女はたいへん美しい。乳白色の顔は灯火に映じてかすかに赤みがさしていた。手足がか細くすらりとしているのは、貧しい家の女性らしくない。老婆が部屋を出た後、少女は少し下町風の訛りのある言葉で語った。
「どうか許してください。あなたをここまでご案内した心ないふるまいを。あなたはきっと良い方なのでしょう。私をまさかお憎みにはならないでしょう。父の葬儀は明日に迫っているというのに、頼りに思っていたシャウムベルヒが、・・そう、あなたはご存じないでしょう。彼はヴィクトリア座の支配人です。彼に雇われてから、早くも二年になるので、ことなく私たちを助けてくれるものと思っていたのに、人の苦しさにつけこんで、身勝手な言いがかりをつけてくるとは。・・どうか、私をお救いください。お金は少ない給金の中から振り分けてお返し致します。たとえこの私は食べなくても。それもできないならば、母の言葉に従うしかありません……。」 
 彼女は涙ぐんで身をふるわせた。その見上げた目には、人にいやとは言わせないなまめかしい愛らしさがあった。この目の働きは意識してするのか、それとも無意識のだろうか。
 ポケットには二、三マルクの銀貨があったが、それで用が足りるはずもないので、私は懐中時計をはずして机の上に置いた。
「これでこの一時の急場をしのいでください。質屋の使いがモンビシュウ街三番地の太田まで訪ねてきたときには、代金を支払うから。」
 少女は驚き感銘を受けた様子で、私が別れのために差し出した手を唇に当てたが、はらはらと落ちる熱い涙を私の手の甲にそそいだ。

 ⑤ああ、何という不運だったろう。この恩に感謝しようとして自分から私の下宿を訪ねてきた少女は、ショーペンハウアーやシラーの著書に囲まれて一日中座って読書する私の窓辺に、一輪の美しい花を咲かせたのだった。この時からはじめて、私と少女との交際は次第に度重なっていき、在留の日本人たちにまで知られることになったので、彼らは早合点にも私が踊り子たちの間に色を漁り歩くと考えた。私たち二人の間には、まだ幼く無邪気な喜びだけがあったというのに。
 ここにその名前を出すのははばかられるが、同国人の中に事を荒立てて喜ぶ者があり、私が足しげく劇場に出入りして女優と交際するということを上官まで報告した。ただでさえ私の学問がずいぶん違った道に行くのを苦々しく思っていた上官は、遂にその一件を公使館に伝え、私を罷免・解職してしまった。公使がこの命令を伝えるとき、私に向かって言うには、「貴方がもしすぐに帰国するならば旅費は支給しようが、もしまだ当地に留まるのであれば公費の助成を仰ぐことは出来ない。」ということであった。私は一週間の猶予を願って、あれこれ思い悩むうちに、生涯でもっとも悲痛を覚えさせた二通の書状に接した。この二通はほとんど同時に出したものだが、一通は母の自筆、もう一通は親戚の者が母の死を、私がこのうえなく慕う母の死を知らせてきた手紙であった。私は母の手紙の文言をここに繰り返し記すことができない。涙がこみ上げてきて筆の運びを妨げるからだ。
 私とエリスとの交際は、この時までははたから見るより潔白だった。彼女は父親が貧しいために十分な教育を受けず、十五才の時舞踏の教師の募集に応じて、この卑しい仕事を教えられ、レッスンが終了したあとはヴィクトリア座に出て、今では場中第二位の地位を占めていた。しかし、作家ハックレンデルが現代の奴隷といったごとく、はかないのは踊り子の身の上であった。少ない給金で束縛され、昼は稽古、夜は舞台と休みなく酷使され、劇場の化粧部屋に入れば白粉もつけ、華美な衣装もまとうけれども、場外に出れば、自分ひとりの衣食も足りないほどであるから、まして親兄弟を養う場合などその苦労はどれほどのことであろう。であるから、彼女たちの仲間で、賎しいかぎりの仕事に堕ちない者は少なくないということだ。エリスがこれを免れてきたのは、おとなしい性質と、気強く何物にも屈しない父親の保護によっていたのだ。彼女は幼時から本を読むことはそれなりに好きな方であったが、手に入るのは品のないコルポルタージュと呼ばれる貸本屋の小説ばかりだったが、私と知り合ったころから、私の貸し与える本を読むことを覚えて、次第にその面白みを知り、言葉の訛りも改め、私に宛てた手紙にもほどなく誤字が少なくなった。そうであるので、私たち二人の間にはまず師弟の交際が生まれたのだった。
 私の突然の免職を聞いたとき、彼女は真っ青になった。彼女のことが関係していたことは隠したが、彼女は私に向かい、母親にはこのことを秘密にしていてほしいと言った。これは、私が留学費用を失ったことを母親が知って私を疎かにするを恐れたからだった。
 ああ、ここにくわしく書く必要もないことだが、私の彼女を愛する気持ちが急に強くなって、とうとう離れられない仲となったのはこの時であった。一身の大事を前にして、まことに生き残るか滅びるかという重大な瀬戸際であるのに、このような行いがあったのを不審に思い、また非難する人もあろうが、私がエリスを愛する気持ちは、初めて出合ったときから浅くはなかったうえに、いま私の不運を憐れみ、また別離の悲しみに寂しくうつむき沈んだ顔に、髪の毛がほどけて垂れかかっている、その美しい、いじらしい姿は、悲痛の極に平常心を失った私の脳髄を貫いて、心を奪われてうっとりする間にここに至ったのをどうしようもなかった。

 ⑥公使に約束した日限も近づき、私の運命の時は迫った。このまま国に帰れば、学成らずして汚名を負ったこの身が再び浮かぶことはあるまい。しかし、ここに滞留するには学資を得る手段がなかった。
 この時私を助けたのは、いま私とともに帰国の途に付いている者の一人、相沢謙吉である。彼はその当時東京にいて、すでに天方伯爵の秘書官であったが、私の免官の記事が官報に載ったのを見て、ある新聞の編集長を説いて、私を社の通信員となし、ベルリンに留まって政治・学芸の記事などを報道させることとしたのだった。
 社の報酬は言うに足りない額だったが、下宿を替え、昼食をとるレストランをも変えたなら、細々ながら生活はしていかれるだろう。あれこれ思案するうちに、誠意をあらわして私に助けてくれたのはエリスだった。彼女はどのようにして母親を説得したのだろうか、私は彼ら親子の家に身を寄せることとなり、エリスと私とはいつからとなく、わずかな収入を合わせて、苦しい中にも楽しい月日を過ごした。
 朝食のコーヒーをすませると、彼女は稽古に行き、そうでない日は家にいて、私はキヨオニヒ街の間口が狭く奥行きの長い新聞閲覧所に出掛け、あらゆる新聞を読み、鉛筆を取り出してあれこれと材料を集める。天井の窓から採光を行っている部屋で、定職のない若者や、多くもない金を人に貸して自分は遊び暮らしている老人、取引の合間を盗んで憩いを求める商人などと隣り合って、冷たい石のテーブルの上で、せわしなく筆を走らせ、給仕の少女が運んでくる一杯のコーヒーが冷めるのもかまわず、細長い板切れに挟んだ新聞を何種類も掛け連ねた脇の壁にしきりに往来する日本人を、知らない人は何と見たことだろう。また、一時近くにもなると、稽古に行った日には帰り道に寄って、私と一緒に店を出る、この格別に軽やかな、まるで掌の上で舞うことさえできそうな少女を、不思議がって見送る人もあったであろう。
 学問は荒れ衰えてしまった。屋根裏部屋の小さな灯火がかすかに燃え、エリスが劇場から帰って、椅子に腰かけ縫い物などをするそばの机で、私は新聞の原稿を書いた。むかし、法令の条目の枯れ葉を紙の上に掻き寄せていたのとはちがい、今はいきいきと活動している政界の動静や、文芸・美術に関連した新現象の批評など、いろいろと結びあわせ、力の及ぶかぎり、ビョルネよりはむしろハイネを学んで構想を立て、さまざまの文章を記した中でも、皇帝ヴィルヘルム一世に続いてフレデリック三世の崩御があり、新帝の即位、ビスマルク侯爵の進退はどうなるかなどのことについては、とくに詳細な報告をしたのだった。であるから、この頃からは思っていたよりも忙しく、多くもない蔵書をひもといて以前の勉強を進めることも難しく、大学の学籍はまだ削られないものの、授業料を納めることも困難なので、たった一つにした講義でさえ、聴講に出かけることはまれであった。
 学問は荒れ衰えてしまった。しかし、私は別の意味で一種の見識を深めた。それは何かといえば、いったい民間の学問というものが広まっいてるのは、欧州諸国の中でもドイツにまさるものはあるまい。何百種という新聞雑誌に散見する議論には、大層高尚なものも多いのだが、私は通信員となった日から、かつて大学に足しげく通っていたころに養った見識によって、読んではまた読み、写してはまた写すうちに、今まで一筋の道だけを走っていた知識は、おのずから総合的になって、同郷の留学生などの大半が夢にも知らぬ境地に到達した。彼らの仲間には、ドイツの新聞の社説すら好くは読めない者がいるというのにだ。

 ⑦明治二十一年の冬がきた。表通りの歩道では凍結にそなえてすべりどめの砂を蒔いたり、スコップで雪掻きもするが、クロステル通りのあたりはでこぼこしたところは見えるけれど、表面ばかりは一様に凍って、朝、戸を開くと飢えて凍えた雀が落ちて死んでいるのも哀れである。部屋を暖め、炉に火を焚きつけても、石の壁を貫き、衣服の中綿を通す北ヨーロッパの寒気はなかなかに耐え難かった。エリスは二三日前の夜、舞台で倒れたといって、人に助けられて帰ってきたが、それ以来気分がすぐれないというので舞台を休み、食事のたびに吐くのを妊娠しての悪阻(つわり)であろうと初めて気づいたのは母親であった。ああ、そうでなくてさえ心細いのはわが身の行く末であるのに、もし妊娠が本当であったらどうしたらよかろう。
 今朝は日曜なので家にいるが、心は楽しくない。エリスはまだ横になるほどではないが、小さな鉄製のストーブの近くに椅子を近づけて言葉少ない。この時、戸口に人の声がして、まもなく台所にいたエリスの母が郵便の手紙を持って来て私に渡した。見ると見覚えのある相沢の筆跡であるが、郵便切手はプロシアのものであり、消印にはベルリンとあった。不審に思いながら手紙を開いて読んでみると、
「急のことであらかじめ知らせる方法もなかったが、昨夜こちらにお着きになった天方大臣に付き従って自分もやってきた。伯爵が君に会いたいとのおっしゃるので、すぐ来てくれ。君の名誉を回復するのもこの機会にあるはずだ。心ばかりが急がれて用件だけを記す。」とあった。
 読み終わって茫然とした顔つきを見て、エリスが言う。
「お国からの手紙ですか。まさか悪い便りではないでしょうね。」
 彼女は例の新聞社の報酬に関する手紙だと思ったのだろう。
「いや。心配することはない。あなたも名前を知っている相沢が大臣とともにここに来ていて、私を呼んでいるのだ。急ぐということだから、今から出掛けます。」
 かわいい一人息子をおくりだす母親でもこれほどは気を配ることはあるまい。大臣に謁見することもあろうかと思うからか、エリスは病身をおして起き、シャツもきわめて白いものを選び、丁寧にしまっておいたゲエロックという二列ボタンの服を出して着せ、ネクタイまで私のために手ずから結んだ。
「これで見苦しいとは誰も言えないでしょう。鏡の方を向いてご覧なさい。どうしてそんな不機嫌なお顔をお見せになるのですか。私もご一緒に行きたいほどですのに。」
 少し様子を改めて、
「いいえ。こうして立派に衣服をお改めになったのを見ると、何となくわたくしの豊太郎様には見えません。」
 また少し考えて、
「たとえ富貴におなりになる日があっても、わたくしを見捨て下さいますな。わたくしの病気が母のいわれるようなものでないとしても。」
「なに、富貴だって。」
 私は微笑した。
「政治の世界などに出ようとの望みを絶ってから何年も経ってしまったのだ。大臣には会いたくもない。ただ長年別れたままの旧友に会いに行くだけだ。」
 エリスの母が呼んだ一等馬車(ドロシュケ)は車輪をきしませ雪道をすぐ窓の下まで来た。私は手袋をはめ、少し汚れた外套を背中にかけて手は通さずに帽子を取り、エリスにキスをして階段を降りた。
 彼女は凍った窓を開け、乱れた髪を北風に吹かせるにまかせて私の乗った馬車を見送った。
 私が馬車を下りたのは「カイゼルホオフ」の入口である。門衛に秘書官相沢の部屋の番号を尋ね、久しく踏み慣れていない大理石の階段を昇り、中央の柱にヴェルヴェットのカバーを掛けたソファを備え置き、正面には姿見を立ててある控の間に入った。外套をここで脱ぎ、廊下を通って部屋の前まで往ったが、私は少しためらった。一緒に大学にいた頃、私の品行方正であるのをさかんにほめるていた相沢が、今日はどのような顔つきで出迎えるであろう。部屋に入って向かい合って見ると、姿かたちは以前に比べると太って逞しくなったものの、相変わらず快活な性格で、私のしくじりをもそれほど問題にしていないらしく見えた。一別後の事情を詳しく述べるひまもなく、彼に連れられて大臣に拝謁し、委託されたのはドイツ語で書いた文書で急に必要な文書を翻訳するようにとのことであった。私が文書を拝受して大臣の部屋を出た時、相沢は後から来て、私と昼食を共にしようと言った。
 食事の席では、彼が多く質問し、私がもっぱらそれに答えた。彼のこれまでの生活がおおむねなだらかに来たのに対して、不運不遇であったのは私の身の上のほうであったからである。
 私が心を開いて一部始終を語った不幸な経歴を聞いて、彼はたびたび驚いたが、むしろ私をとがめるよりは、かえって他の凡庸な留学生仲間たちを罵倒した。しかし、話が終わった時、彼は改まった表情になって忠告するには、
「この一件は、もともと君の生来の心弱さから発したことであるから、いまさらどうこう言ってもしかたのない。とはいっても、学識も才能もある者がいつまでも一少女の情にこだわって目的の無い生活をすべきではない。今は天方伯爵もただ君のドイツ語の語学力を利用しようというお気持ちしかない。私もまた伯爵が君の免官の理由をご存じであるから、強いてその先入観を改めようとはしない、伯爵から道理を曲げてまで人をかばいだてするなどと思われては、友のためにもならず、わが身にも不利だからだ。人を推薦するには、まずその能力をしめすに越したことはない。能力を示して伯爵の信用を求めよ。またその少女との関係は、たとえ彼女にまごころがあっても、いかに二人の交わりが深いものになっていたとしても、才能を知っての恋ではなく、慣習という一種の惰性から生じた関係である。思い切って彼女との関係を断て。」と。これがその忠告の言葉の概略であった。
 海原で舵を失った人が、はるかに山を認めたようなのが、相沢の私に示した今後の方針ではあった。けれどもこの山はまだ幾重にも立ちこめた霧の中にあって、いつ行き着くとも、いや、果たして到達すべきものとも、さらにまた心から満足を与えてくれるものとも、いっさいはっきりとはしなかった。貧しい中にも楽しいのは現在の生活であり、エリスの愛情は見捨てがたい。私の弱い心には決意するすべもなかったが、ひとまず友人の言葉に従ってこの関係を断つことを約束した。私は自分の守るものを失うまいとして、わが身に敵対するものに対しては抵抗するけれども、味方の友人に対してはいつもいやと断われないのであった。
 友と別れて表に出ると、風が顔に吹き付けた。二重のガラス窓をしっかり閉ざして、大きな陶製の暖炉に火を焚きつけたホテルの食堂を出たのであったので、薄い外套をとおす午後四時の寒さは格別に耐え難く、鳥肌が立っとともに、私は心の中にも一種の寒さを覚えたのだった。
 翻訳は一晩で仕上げた。カイゼルホオフ・ホテルに通うことはこれ以後だんだん頻繁になっていくうちに、初めは伯爵の言葉も用事だけであったが、後には最近故国であったできごとなどを取り上げて私の意見を問い、折に触れては道中で人々がしくじったことなどを告げてお笑いになった。

 ⑧ひと月ばかり過ぎて、ある日伯爵は突然私に向かって、
「私は明日の朝、ロシアに向かって出発することになっている。君は随行できるか。」と問われた。私は数日の間、例によって公務繁忙の相沢には会っていなかったので、この問いかけは不意を突いて私を驚かせた。
「ぜひとも仰せに従いましょう。」
 私は自分の恥をここに告白しよう。この返事は即座に決断して言ったのではない。私は自分が信頼する気持ちを起こした人に、急にものを尋ねられたとき、とっさの間、その答えの及ぶ範囲をよく考えもせず、すぐさま承諾することがある。そうして承知したあとになってその実行しがたいことに気づいても、その時に心が空虚であったことを無理にも覆い隠し、我慢して約束を実行することが幾度もあった。
 この日はいつもの翻訳の代金に加えて、旅費まで添えて下されたのを持ち帰り、翻訳代金をエリスに預けた。これでロシアから帰って来るまでの家計を支えることはできよう。彼女は医者に診せたところやはり子供が出来ているとのことだった。貧血の性質であったから、何ヶ月か気づかなかったのであろう。支配人からは舞台を休むことがあまりに長くなったので除籍したといい寄こした。休んでからまだひと月ほどであるのに、これほど厳しく言ってきたのはわけがあるからであろう。彼女は私の旅立ちのことにはそれほど心を悩ます様子も見えなかった。偽りのない私の心を篤く信じていたので。
 鉄道で行けばそれほど遠くもない旅であるから、支度というほどのものもない。身の丈に合わせて借りた黒の礼服、新しく買い求めたゴタ版のロシア宮廷貴族の系譜、それに二三種の辞書などを手提げカバンに入れただけだ。エリスはさすがに心細いことばかり多いこの頃のことであるから、私が出て行く後に残るのも気が重いだろうし、また駅で涙をこぼしなどしたら後ろ髪を引かれる思いになってしまうので、翌朝早くに、母とともに知人の家に出してやった。私は旅支度を整えて家の戸を閉め、鍵を建物入口に住む靴屋の主人に預けて出かけた。
 ロシア旅行については、何事を書くべきであろうか。これといって述べるほどの事はない。
 通訳としての任務につくと、ひたすら忙しく、たちまちロシア朝廷のただ中にいるのだった。私が大臣の一行に従ってペエテルブルクにあった間、私の周囲を取り巻いていたものは、パリでも最高にぜいたくな華やぎを氷雪の中に移しかえたかとも思われる宮殿の装飾であり、わざわざ黄色い蝋燭をおびただしく灯した中に、星を重ねた勲章の数々、いくつもの肩章にきらめく光、技巧の粋を尽くした彫刻の施された暖炉の火に寒さも忘れて官女たちが使う扇の輝きなどで、この人々の中にあってフランス語をもっとも流暢に話すのは私だったので、主客の間をとりもって通訳するはほとんどが私の務めだった。
 この間にも、私はエリスを忘れなかった。いや、彼女は毎日のように手紙をよこしたので、忘れようがなかった。
「あなたがお発ちになったその日は、いつになく一人で明かりに向き合うのがつらく、知り合いの所で夜になるまで話を交わし、疲れるのを待って家に戻り、そのまますぐに寝てしまいました。翌朝、目が覚めたとき、なお一人留守をしているのが夢ではないかと疑いました。やっと起き出したときの心細さ、このような思いは、暮らしに困ってその日の食べ物がないような時にも、したことがありませんでした。」
 これが第一の手紙のあらましである。
 またしばらくしてからの手紙は、たいへん思いつめて書いたようであった。初めを「いいえ」という文字で書き起こしてあった。
「いいえ、あなたを愛する心の深い底を今こそ思い知りました。あなたは故国には頼りになる親類など無いとおっしゃいましたから、こちらに暮らしの立つ何かよい手段があれば、ずっとこちらに留まらないはずはないでしょう。また、私の愛情でつなぎ止めずにはいないでしょう。それもかなわず、東洋にお帰りになるというならば、母と一緒に行くのは簡単ですが、そのための多額の旅費をどこで得ましょう。どんな仕事をしてでも、この地に踏みとどまって、あなたがご出世なさる日を待とうと常には思っていましたが、しばらくの旅といってお出かけになってからこの二十日ばかり、別離の思いは日ごとに深まっていくばかりです。たもとを分かつのはただ一瞬の辛さと思っていたのは間違いでした。私の身体もだんだん目に立つようになってきます。それもある上に、たとえどのようなことがあっても、決して私をお棄てくださいますな。母とはずいぶん争いました。けれども、私が以前とは異なり、固く決心した様子を見てはようやく納得したようでした。私が日本に行く日には、自分はステッティンの辺りの農家に遠い親戚がいるから、そこに身を寄せようと言います。お手紙にあるとおり、大臣様に取り立てられなさいましたなら、私一人の旅費くらいはどうにでもなりましょう。今はただ、あなたがベルリンにお帰りになる日を待つばかりです。」
 ああ、私はこの手紙を見てはじめて自分の置かれた立場をはっきり見極めたのだった。わが心の鈍さがなんとも恥ずかしい。私はこれまで、自分一人の身の上についても、何の関係もない他人の有り様についても、優れた判断をするものとひそかに誇っていたが、その決断力とは、順境の時にのみ有効で、逆境には全く働かないものだった。自分と人との関係をはっきりさせねばならない時、せっかくの頼みとする知恵の鏡はくもってしまうのであった。
 大臣はすでにわたしを厚く信任している。しかし、目の前のものしか見えない私はただ自分の果たしている任務のみを見ていた。私はこれに未来の望みを繋ぐことまでは、(神もご承知だろう)決して思いも及ばなかったのである。しかし、いまこのことに気づいて、なお私は平静でいられたろうか。以前、親友が私を推薦したときは、大臣の私に対する信用は、まだドイツの諺にいう屋根の上の鳥のように手の届かないものだったが、今はいくらか信用も得たらしいと思えるまでになったので、このごろ、相沢が言葉の端に、本国に帰ってからもこうして一緒に働けるなら云々と言っていたのは、大臣がその様に言ったのを、友人ながらも公務に関することゆえはっきりとは口にしなかったのであったか。今になって思い返してみれば、私が軽率にも彼に向かってエリスとの関係を断とうと言ったのを、彼は早くに大臣に伝えたのであっのだろうか。

 ⑨ああ、ドイツにやって来た当初、自分の本領を悟ったと思い、また二度と機械的人間にはなるまいと心に誓ったが、これは足を結わえたまま放し飼いにした鳥がしばらく羽を動かしてみて、おのれは自由であると誇っていたようなものではないか。脚の紐はほどくことができない。初めこの紐を握っていたのは某省の私の上官であり、今ではこの紐は、なんと天方伯爵の手中にある。
 私が大臣一行とともにベルリンに帰ってきたのは、丁度新年の元日の朝だった。一行とは駅で別れを告げて、わが家をさして馬車を走らせた。当地では今でも除夜に眠らず、元旦に寝る習慣なので、どの家もひっそりと静まりかえっていた。寒さは厳しく、路上の雪は凍り固まって氷片となり、朝日に映じてきらきらと輝いていた。馬車はクロステル小路に曲がって、家の戸口に止まった。この時、窓を開ける音がしたが、車からは見えなかった。馭者(ぎょしゃ)にカバンを持たせて、階段を昇ろうとすると、エリスが階段を駆け降りてくるのに出合った。彼女が一声叫んで私のうなじに抱きついたのを見て、馭者はあきれた顔つきで、何やら髭のうちでつぶやいていたがよくは聞き取れなかった。
「ようこそ帰っていらっしゃいました。このままお帰りにならなかったら、我が命はきっと絶えてしまったに違いありません。」
 私はこの瞬間まで依然決心がつかず、故郷への思慕と栄達への願望とは、時としては愛情を押し潰そうとしたが、この一刹那、心決めかねてのうやむやな気持ちは消えて、私は彼女を抱きとめ、彼女の頭は私の肩にもたれて、その喜びの涙ははらはらと肩の上に落ちた。
「何階まで持っていくかね。」ドラのような声で叫んだ馭者は、さっさと階段を昇って階段の上に立っていた。
 戸の外に出迎えたエリスの母に、「これで馭者をねぎらってください。」と銀貨を渡して、私は手を取って引くエリスに連れられ、急いで部屋に入った。一目見るなり、私は驚いた。テーブルの上には白い木綿、白いレースなどをうずたかく積み上げてあったから。
 エリスはにこにこしながら、これを指さして、
「何だとご覧になりますか。この支度を。」
と言いながら、一つの木綿のきれを取り上げたのを見れば、それは産着(うぶぎ)だった。
「私のよろこびを想像できますか。生まれてくる子はあなたに似て黒い瞳を持っていることでしょう。この瞳。ああ、夢にばかり見たのはあなたの黒い瞳です。この子が生まれてきた日には、あなたの正しいお心で、けっして私生児にして太田以外の名前を名のらせたりはしないでください。」
 彼女は頭を下げた。
「幼稚だと言ってお笑いになるでしょうが、教会へ洗礼に行く日はどんなにかうれしいことでしょう。」
 見上げた目には涙が満ち溢れていた。
 二、三日の間は、大臣も長旅でお疲れであろうと思い、あえてお訪ねもせず、家にばかり籠っていたが、ある日の夕暮れ、使いがやってきて招かれた。往ってみると格別の待遇で、ロシア行きの慰労の言葉をかけられた後、
「わしと一緒に東へ帰る気はないか。君の学問は私には推察もできないが、語学だけでも世のために大いに役立つことだろう。こちらでの滞在もずいぶん長いので、なにかと面倒な係わりある人もあろうと相沢に尋ねたところ、そういう者はいないと聞いて安心した。」と仰せられた。
 その様子は、とうてい断りようもないものだった。ああ、しまった、と思ったが、さすがに相沢の言葉を嘘だともいえず、さらにもし、この手づるにすがらなかったならば、本国を失い、名誉を取り戻す手段もなくし、この身は広漠たる欧州の大都会の人の海に葬られるかという思いが瞬間頭に湧き起こった。ああ、なんという節操のない心か、「かしこまりました。」と答えていたのは。
 いかに鉄面皮の自分であれ、帰ってエリスに何と言おう。ホテルを出たときの私の心の錯乱は、たとえるものも無かった。私は道の東西も分からず、憔悴しきって歩いていく間に、すれ違う馬車の馭者に何度も怒鳴られ、その度に驚いて飛びのいた。しばらくしてふとあたりを見ると、動物公園のそばに出ていた。倒れるようにして道路際のベンチに腰掛けて、焼けつくように熱し、木槌で叩かれるようにがんがん響く頭を背もたれにもたせかけ、まるで死んだようになって幾時を過ごしたろうか。激しい寒さが骨にしみとおるように感じて我に返ったときは、もう夜に入って、雪が盛んに降りしきり、帽子の庇にも外套の肩にも、雪は一寸ほども積もっていた。
 もはや十一時を過ぎただろうか。モハビットとカルル街の間を通う鉄道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルク門の辺りのガス灯は寂しい光を放っていた。立ち上がろうとしたが、足が凍えているので、両手でさすって、ようやく歩けるくらいにはなった。
 足の運びもはかどらないので、クロステル小路まで来たときには、夜中を過ぎていたであろう。ここまで来た道を、どう歩いてきたのか分からない。一月上旬の夜のことで、ウンテル・デン・リンデンの酒場やカフェはまだ人の出入りで盛んに賑わっていたであろうが、少しも覚えていない。わが脳裏には、ただただ、自分は許すことのできない罪人であるという思いだけが満ち満ちていた。
 四階の屋根裏には、エリスはまだ起きているらしく、明るい光が一つ星のように、暗い夜空にすかしてはっきり望まれたが、降りしきる鷺の舞うような白い雪片に、被われたかと思えばまた現れて、あたかも吹雪く風に弄ばれているかのように見えた。建物に入ると疲労を感じ、身の節々の痛みが耐え難いので、這うようにして階段を昇った。台所を過ぎ、部屋の戸を開いて入ったとき、テーブルに向かって産着を縫っていたエリスはこちらを振り返って、「あっ。」と叫んだ。
「どうなさいました。そのお姿は。」
 驚いたのももっともであった。真っ青になって死人のような私の顔色、帽子をいつの間にか失くし、髪はぼうぼうに乱れて、何度か道につまずいて倒れたので、衣服は泥まじりの雪に汚れ、ところどころ裂けていたのだから。
 私は答えようとしたが、声が出ず、膝しきりにががくがくと震えて、立っていることができないので、椅子をつかもうとしたところまでは覚えているが、そのまま床に倒れてしまった。

 ⑩意識を回復したのは、数週間の後のことだった。熱が激しく、うわごとばかり言うのを、エリスが手厚く看病するうちに、ある日、相沢は訪ねてきて、私が彼に隠していた事の次第を詳しく知り、大臣には病気のことだけを告げ、良いように取り繕っておいたのだった。私は病床に付き添っているエリスを初めて見て、その変わり果てた姿に驚いた。彼女はこの数週間のうちにひどく痩せ、血走った目はくぼみ、血の気の失せて灰色になった頬はげっそりこけていた。相沢の援助で日々の衣食には困らないが、この恩人は彼女を精神的に殺してしまったのだった。
 後で聞けば、彼女は相沢に会ったとき、私が相沢に与えた約束のことを聞き、またあの夕方、大臣に申し上げた承諾の返事を知って、急に席から跳び上がり、顔色はまるで土のごとく、
「私の豊太郎様、そこまで私をだましていらしたのですか。」
と叫び、その場に倒れてしまった。相沢は母親を呼んでともに助けて寝床に横たえたが、しばらくして目を覚ましたとき、目は直視したままで、近くの人も視野に入らず、私の名前を呼んで激しく罵り、自分の髪をかきむしり、布団をかんだりなどし、また急に正気に戻った様子で何か物を探し求めたりした。母親が取ってやるものを全て投げ捨てたが、テーブルの上にあった産着を与えたところ、探り見て顔に押し当て、涙を流して泣いた。
 これ以後は騒ぐことはなかったが、精神の働きはほとんどまったくすたれて、その物を解せぬさまは赤ん坊のようであった。医者に見せたところ、極度の心労による急性のパラノイアという病気なので、治癒の見込みはないという。ダルドルフにある精神病院に入れようとしたが、泣き叫んで聞き入れず、後には例の産着一つを身から離さず、何度か出しては見、見てはすすり泣く。私の病床を離れることはなかったが、これすら意識があってのことではないと思われた。ただ、時々、思い出したように、「薬を。薬を。」と言うばかり。
 私の病気はすっかり治った。生ける屍のエリスを抱きしめて涙をどれほど流し続けたことだろうか。大臣に随行して帰国の途につく際には、相沢と相談してエリスの母に細々と生計を立てるに足るほどの元手を与え、痛々しい狂女の胎内に遺してきた子どもが生まれたときのことも頼んでおいたのだった。
 ⑪ああ、相沢謙吉のような良き友はこの世にまたと得難いであろう。けれども、私の脳裏には一点の彼を憎む心が今日までも残っているのであった。

「舞姫」の難語の注釈

 
「舞姫」の難語の注釈

舞姫―踊り子。舞を舞う少女
積み果てつ―積み終わった。「つ」は完了
中等室―中等の客室
熾熱灯―白熱電灯。「アーク灯」
いたづらなり―むだである
骨牌―かるた、カード、マージャン用の牌。
残れる―残っている(者)
余一人のみなれば―私一人だけなのだから。前文との倒置。
洋行―欧米に渡航、留学する
官命―公命、政府の命令
蒙(こうむ)る―受ける
セイゴン―サイゴン(現・ホーチ ミン市) ベトナム南部の中心都市。南シナ海に注ぐサイゴン川の下流西岸に位置する河港都市。ヨーロッパ航路の寄港地。
紀行文―旅の記録を綴る文章
幾千言をかなしけむ―どれほど多くの言葉を書き記したことだろうか。
もてはやされしかど―賞賛・喝采(かっさい)を受けたけれど、
放言―言いたい放題に言うこと
さらぬも―そうでないものも、
尋常―普通
いかにか見けむ―どのように思ったことだろうか。
こたび―今度(帰路に就いいてること)
途に上る―(旅に)出かける
日記ものせむ―日記を書こう。
物学び―学問
ニル・アドミラリイ―冷淡、虚無的な態度。
気象―性質、気立て。
故―理由、わけ。
げに―本当に 、まことに
なほ―まだ、依然として。
多かれ―(係り結びで、上の「こそ」と呼応した「多し」の已然形。逆接の表現)多いけれども
浮き世のうきふし―世間の辛く苦しいこと
頼み難き―頼り(当て)にならないこと
言ふも更なり―言うまでもない。勿論だ。
我と我が心―ほかならぬ自分自身の心
きのふの是はけふの非なる―昨日良しとしたことを今日は否定するように、考え方がすっかり変わってしまうことの漢文的表現。
誰にか見せむ―(誰に見せようか)誰にも見せようもない。 (反語表現)
縁故―理由、いわれ。
嗚呼―ああ!(感嘆の語)
ブリンジイシイ―イタリア半島南端の港。アドリア海に臨んでいる。ブリンディッジ
生面の客―初対面の乗客。
微恙―軽い病気
ことよす―かこつける、言い訳にする
房―小部屋、船室。
恨み―悔恨、悲しみ。漢詩では白居易の「長恨歌」(長き恨みの歌)がある
腸日ごとに九廻す―断腸の悲しみ、惨痛の様子。
惨痛―激しい痛み
鏡に映る影、声に応ずる響きのごとく―すぐに即応する
懐旧の情―昔を偲(しの)ぶ気持ち。懐旧は懐古に同じ。
銷(しょう)す―消し去る、発散する。
ほかの恨みなりせば―もしもほかの愁い・悔恨であったならば、(仮定法)文末の「なむ(推量)」と呼応
なりなむ―きっとなることだろう彫りつけられたれば―刻み込まれているので、
さはあらじ―そんなことはあるまい。
房奴―給仕、ボーイ。
電気線の鍵―電気のスイッチ
程もあるべければ―時間もありそうなので、
いで―さあ

庭の訓―家庭教育。庭訓(ていきん)。
受けしかひに―受けた甲斐があって、
喪ひつれど―亡くしたが、
旧藩の学館―藩の学校、藩黌(はんこう)。
予備黌―大学予備門。東京大学予科(現・東大教養学部)。
一級の首―首席、クラス一番
力になして―頼りとして
慰みけらし―慰んだであろう、安心したようだ。
学士―大学卒業時に得る称号。
またなき名誉―またとない、格別の名誉
出仕―官庁に勤務すること。
官長―上司(の官僚)
覚え殊なりしかば―信任も格別だったので、
我が名を成さむも―名誉を獲得することも (いわゆる立身出世すること)
家を興す―家運を盛り立てる
今ぞ―今(が好機)だ。
さまで―それほどまで
来(き)ぬ―やってきた。「ぬ」は完了

模糊たる―漠然とした、ぼんやりした
功名の念―手柄をたて名誉をうる(名を上げる)という考え。
検束―みずからを引き締めること束縛。
勉強力―無理に努力する能力
立てり―立った。 「り」は完了
なんらの~ぞ―なんという~だ! 感嘆の表現
光彩―輝き
色沢―色つや
菩提樹下―次の「ウンテル・デン ・リンデン」の訳語。
幽静なる境なるべく―いかにもひっそりとした所であるらしく
大道髪のごとき―大通りがまっすぐに延びている様子の比喩
両辺なる―両側にある
隊々の士女―幾組もの男女のグループ
街に臨める窓に倚りたまふ―街路に面した宮殿に住まわれた(「窓にもたれかかる」は比喩。)
かほよき―顔かたちの美しい
巴里まねび―パリの風俗を真似た
かれもこれも―あれもこれも、どれもが
土瀝青―アスファルト
音もせで―音も立てないで
楼閣―ビル・高い建物
噴井―噴水
ブランデンブルク門―ベルリンの市門。門の上に勝利の女神像を頂く。
半天―なかぞら。大空の真ん中
凱旋塔―戦勝記念塔。普仏戦争の勝利とドイツ統一(一八七一)を記念して建てられた。
神女の像―勝利の女神像。
あまた―たくさん
目睫の間に聚まる―すぐ近くに密集している。「目睫」は眼とまつ毛。極めて近いものの喩え。
応接にいとまなき―(とても対応しきれないほど)次々に華やかな景色が現れるさま
うべなり―もっともだ、当然だ。境―土地、境遇。ここでは前者の意。
遊ぶ―他の土地を訪れて学ぶ。遊歴、遊学。
あだなる―はかなく移ろいやすい、むだな、
心をば動かさじ―心を動かすまい。
我を襲ふ外物―自分を圧倒しようとする外界の事物(の印象)。すばらしい美観。
鈴索―呼び鈴・ベル
謁を通ず―身分の高い人を訪れ、面会を求めること。
東来の意―日本からやってきた趣意
手つづきだに事なく済みたらましかば―手続きさえ問題なく通過したなら。ここは「反実仮想」ではない。
故里―故国
かくは―これほど上手に。
学び得つる―学び得たのか。「つる」は疑問語の結びで、完了「つ」の連体形(係り結び)。
官事―公務
かねて―前もって
おほやけの許し―国(公式)の許可
ところの大学―現地の大学。フリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現・ベルリン大学)。
簿冊―帳簿。ここは学籍簿。
さらぬ―そうでない(もの)
幾巻をかなしけむ―何冊のノートにしたことだろうか。数え切れない。
思ひ計る―考慮する、予期・計画する。
政治家になるべき特科―政治家になるための特別の講座
あるべうもあらず―あるはずもなく。「あるべくもあらず」の音便
これかかれか―あれかこれか
講筵―講義。
つらなる―列席する。
謝金―礼金。授業料。
包む―包み隠す。
好尚―好み。嗜好(しこう)。
~なるらむ―~なのであろう。
神童―非常に優れた知恵をもつ子ども。 天才児
所動的―受動的
当たりたればにや―当たったからであろうか。「にや(あらむ)」は推測の表現(~なのだろうか)
やうやう―だんだん
我ならぬ我―本当の自分ではない自分。偽りの自己。
攻むるに似たり―攻撃するかのようである。「似たり」は「ごとし」と同。比況の表現。
雄飛―勢いよく活躍すること。「雌伏」の対義語。
よろしからず―適当でなく。ふさわしくなく。
諳じて―暗誦して
獄を断ずる―訴えを裁く。裁決を下す。
思ふやう―思う(こと)には
なさんとやしけん―なそうとしたのではないか。「や」は疑問の係助詞。「けん(けむ)」は過去の推量、連体形。
なほ―まだしも。それでもなお。
堪ふべけれど―(やろうと思えば)可能であるけれど。「堪ふ」は負荷に堪えられる意。
瑣々たる―こまごました。些末な。
いらへ―返事。返答。
かかづらふ―こだわる。拘泥。
だに―~さえ
得たらんには―会得したときには、
紛々たる―ごたごたと入り乱れた。まぎらわしい。
破竹のごとく―(竹を割るように)物事が一気に(勢いよく、スムーズに)運ぶこと。
広言しつ― 人前で堂々と言った。「つ」は完了
よそにして―真剣でないこと。いいかげんにして、放っておく。ほったらかして。なおざりにして。
やうやく―前出「やうやう」と同じ。なかなか実現しなかったことが、待った末に実現するさま。ようよう。やっと。だんだん。次第に。
蔗を嚼む境に入る―だんだんに面白くなる。「蔗境に入る」ともいう。サトウキビをかみしめて甘みを感ずるようになるというのが原義。
器械をこそ作らんとしたりけめ―器械を作ろうとしたのであろうが。係り結び「こそ…けめ(けむの已然形)」で逆接の関係を含んで以下に続く。
面もち―顔つき
いかでか喜ぶべき―どうして喜ぶはずがあろうか。喜ぶはずがない。反語表現。
なりけり―なのであった。詠嘆の表現。
猜疑―妬(ねた)み疑う。
讒誣―無実のことで非難・中傷する。
故なくてやは―理由がないことがあろうか。(あるのだ。)「やは(あらむ)」反語表現。
かたくななり―融通が利かない。頑固。一途。
かつは嘲りかつは嫉み― 一方では嘲りまた一方では嫉み。嘲ったり嫉んだり。 「かつ~かつ~」の構文
知らねばなり―知らないからである。
故よし―いわれ。由来。
処女―乙女。未婚のうら若くおとなしい女性。きむすめ
長者―年長者や目上の人。
よくしたる―実現できた。
勉強―「強いて勉める」。
棄てて顧みぬ―放棄して気にもとめない。
自ら我が手足を縛せしのみ―自分で自分を束縛していただけなのだ。
有為の人物―将来役に立つ(前途有望の)人物。
あっぱれ―賞賛に値するさま。みごとだ。感心だ。
せきあへぬ―こらえられない。
怪し―不思議だ。
なかなかに―かえって。むしろ
さることなり―もっともなことだ
おろかならずや―愚かではないか。愚かなことだ。反語
ふびんなる―憐れむべき。困った。かわいそうな。気の毒な
面―顔
赫然たる―輝いた
珈琲店―酒場、カフェ
就く―付き従う。
レエベマン―道楽者。
なければ―ないので。
やう―方法。手段。すべ。
これぞ―これ(こそ)が。「ぞ」 は強意の係助詞。「なりける」に 係る。
冤罪―無実の罪。
暫時―しばらく。わずかの間。
無量の艱難―はかりしれない苦難
閲しつくす―経験しつくす。味わい尽くす
媒―間接的な原因。誘因。

獣苑―「動物公園」という大きな公園。
僑居―仮の宿・旅宿
クロステル巷―:原語では「修道院(僧院)通り」
木欄―木の手すり 、ベランダ
襦袢―肌着
窖―穴倉、地下室。
恍惚―心を奪われてうっとりするさま
倚る―寄りかかる
被りし巾―被っている布。スカーフの類。
なければ―ないので
写すべくもあらず―書き写すこともできない。
清らにて―気品があって美しい、華やかで美しい(ここでは「澄んだ」の意もあるか。)
目の―この「の」は同格の格助詞。「で」
宿せる―宿している
徹す―貫き通る。
彼―ここでは少女を示す、彼女。(この頃の言葉遣いで「彼」は性別のない三人称で使われる)
はからぬ―予期せぬ
前後を顧みるいとまなく―冷静に物事を判断する余裕もなく
泣くにや―泣くにや(あらん)。泣いているのであろうか。
憐憫の情―憐れみの心。同情。 なさけをかけること。
ところに―当地に
係累―(自由を束縛する煩わしい)妻子や親類。
外人―よそ者
黄なる面―黄色い顔。白人に対する黄色人種としての自意識を表す語。
うち守りしが―じっと見つめていたが
真率なる―偽りのない。正直で真面目な。
色―顔色。表情。
見ゆ―見える。思われる。
恥なき人―恥しらず。
従はねば―従わないから
打ちき―打った。
葬らではかなはぬ―葬らないわけにはいかない。
だに―(否定語とともに)~さえ(…ない)
欷歔―すすり泣き
送り行かんに―送って行くから
な~そ―~してはいけない(軽い禁止表現)
梯(はしご)―階段
老媼―老婆
あららかに─乱暴に
悪しき相─悪い人相
額に印す─額にきざみつける。(貧苦の姿を)はっきりと見せている
獣綿─ウール地、または毛皮。
たて切りつ─閉めきった。
油灯─ランプ
漆もて─漆で
仕立物師─洋服縫製業、裁縫を業とする。
すぎぬ─亡くなった
名なるべし─名前なのであろう
慇懃に─礼儀正しく、丁重に
廚─台所。厨房。
臥床─ベッド
マンサルド─屋根裏部屋
梁─柱の上に張りわたして屋根を支える横木。
立たば─立ったならば。「未然形+ば」の形(仮定条件)。
中央なる机─中央にある机。「なる」は存在の意、「の」。
氈─敷物。ここではテーブル掛けを指す。
陶瓶─陶製の花瓶
似合はしからぬ価高き花束─人気高い踊り子の証(いかなる花束であるか論の多いところ)
そが傍ら─それのそば
羞を帯びて─恥らいを帯びて。きまりわるそうに。はにかんで。(含羞の表情)
潮す―きざす。恥じらう顔色をも表す。
たをやかなる―姿・形・動作がしなやかでやさしいさま。
訛る―言葉や発音がくずれる。また、標準語とは異なった言い方や発音をする。上・中流市民の正しい言葉遣いでないところがあることを指している。
なるべし―であろう。であるにちがいない。
よも~じ―まさか~しないでしょう。「けっして憎まないように。」という懇願。
知らでやおはさん―知らないでいらっしゃいましょう。ご存じないでしょう。
「ヴィクトリア」座―ウンテルデンリンデンの南方二㎞ほどにあった二流劇場
座頭―支配人。
抱へ―雇い人。
事なく―問題なく。すんなりと
憂ひ―嘆き。悲しみ。
言ひかけ―言いがかり。
還し参らせん―お返し申し上げます。謙譲語。
よし(や)~とも―たとえ~ても
媚態―こびる表情。
かくし―ふところ、ポケット。
急をしのぐ―急場を乗り越える。 とりあえず間に合わせる。
取らすべきに―取らせようから
辞別―暇乞い。別れの挨拶

悪因―悪因縁。不幸な巡り合わせ
ショオペンハウエル―同時代のドイツの厭世主義哲学者。
シルレル―ドイツの古典主義の詩人・劇作家。
ひねもす― 一日中。朝から晩まで
兀座―きちんとすわる。
名花―美しく立派な花。女優・芸妓の比喩に用いる。
咲かせてけり―咲かせたことであった。
やうやく―だんだん
繁くなりもてゆきて―頻繁になっていって
速了―早合点すること。
色を漁する―漁色・猟色。女をあさる。色事にふける。
痴蠶―無邪気なこと。たわいもないこと。 おろかなこと。
斥す―指さす。指摘する。
はばかり―遠慮。
事を好む人―何か事あれかしと願うたちの人。
さらぬだに―そうでなくてさえ。 ただでさえ。
すこぶる―相当
岐路に走る―枝道に走る。横道に逸れる。
御身(おんみ)―あなた
路用―路銀。旅費。
公の助け―国の助成。
とやかう―あれこれ
またなく―二つとなく
妨ぐればなり―妨げるからである。
清白―清廉潔白。
つのり―(生徒の)募集。
クルズス―講習。
ハックレンデル―ドイツの小説家。「ヨーロッパの奴隷生活」(1854)で宮廷劇場の踊り子を現 代の奴隷に擬した。
つながれ―拘束を受けて
温習―おさらい。練習。
紅粉―べにとおしろい。
親はらから―親兄弟
いかにぞや―どうであろうか。
賎しきかぎりなる業―賎業婦。私娼
~とぞいふなる―~という話だ
剛気―強い気性。
さすがに―それでもやはり。
コルポルタアジュ―行商
趣味―面白み、味わい。美を知る能力。
文―手紙
かかれば―こういうわけであるから
不時―不意。突然。
免官―免職。罷免。公務員の身分を失わせること。
色を失ひつ―顔がまっ青になった。「つ」は完了
身の―自身の
学資―学費・生活費。留学資金のことをいう。
要なし―無用だ。必要ない。
愛づ―愛する。かわいがる。
危急存亡の秋(とき)― 一身の大事に関わる重大な決断の瀬戸際。滅びるか存続するかの大事な時。
怪しむ―不思議に思う。
誹る―非難する。
数奇―不運。不幸。
鬢の毛―顔の両側面の髪。耳の上の髪。
解けて―ほどけて
いぢらしき―可憐な。痛々しい
感慨―身に染みて深く感じること物事に感じて嘆くこと。
恍惚―頭がぼけて意識がはっきりしないさま、我を忘れる。前にクロスター街の寺院を見て「恍惚」となった描写があった。心を奪われてうっとりするさま
いかにせむ―どうしようもない

命―運命
学成らずして―学問が成就しないで
浮かぶ瀬あらじ―不運から抜け出るチャンスはあるまい。
手だて―方法。手段。
官報―政府発行のニュース(新聞)。人事異動の記事がある。
報道せしむる―報道させる
午餐―昼食
とかう―あれこれ
寄寓― 一時的に人の家に身を寄せること。
憂きが中にも―つらいことの中にあっても
果つれば―終わると
キョオニヒ街―クロスター街に直交する旧市街の大通り。
休息所―新聞縦覧所を兼ねた休憩室(コーナー)
引き窓―スライド式の窓。
取引所―証券取引所
小をんな―ウェイトレス。給仕の少女。
一盞― 一杯。「盞」は小さな杯(カップ)。
あきたる新聞の―「の」は同格の格助詞。「はさみたる」まで係る。
かたへ―傍ら。側。
何とか見けん―何と見た(思った)ことだろうか。
よぎりて―立ち寄って
常ならず―ひときわ
なしえつべき―(いかにも)することができそうな。「つ」は強意
荒みぬ―荒れてしまった。放り出してしまった。気持ちが荒れたり、また努力を怠ったりした結果、技量などが低下した。
倚りて―もたれかかる。すわる
殊にて―異なっていて
活発々たる―生気に溢れ、勢いがよい。活気ある。
ビョルネ―ドイツの作家。官憲の弾圧を逃れ、パリで政府批判を展開した。
ハイネ―ドイツの詩人・評論家。同じくパリに逃れ、諷刺的な時局批判を行なった。
思ひを構へ―構想を練り
仏得力三世―フレデリック(フリードリヒ)三世。父帝ヴィルヘルム一世とともに一八八八(明二一)年中に病没。
崩そ―崩御、皇帝を敬ってその死をいう語
新帝―ヴィルヘルム二世。
ビスマルク侯―ヴィルヘルム一世時代以来のドイツの宰相。
つまびらかなる―詳細な
忙はし―忙しい。
ひもとく―書物を開く。書を読む
旧業をたづぬ―昔の調べ物を続行する、くらいの意。
難ければ―困難なので
見識―物事を正しく見通し、判断する力。また、それに基づくしっかりした考え。
長じき―伸ばした。
いかに―どのようであるか。
民間学―官学アカデミズムに対して、ジャーナリズムによる批評・研究の学問。在野の研究者による学問。
流布―世間に広まる。ゆきわたること。
若く― 匹敵する。かなう。打ち消しの語を伴って用いて、 「しくはなし」で、及ぶものはない。
高尚なる―高尚な(議論)。「高尚」は高潔・立派なさま。上品で程度の高いさま。
繁く―足繁く。しきりに。
一隻の眼孔もて―物事の本質を見抜く鋭い眼力で。「隻眼」は
すぐれた見識。独特の見識。
綜括的―総合的
おほかた―たいていの者。世間一般。
よくはえ読まぬ―十分に読めない(もの)。

すき―鋤。ここはスコップ
凸凹坎膃―道がでこぼこしていること。
うがつ(穿つ)―貫き通す。
なかなかに―(打消語と呼応して)とても。とうてい。
卒倒―意識を失って倒れる。
悪阻(つわり)―妊娠の初期にみられる消化器系の一群の症状。空腹時の悪心(おしん)や嘔吐、気分や嗜好の変化、食欲不振。
おぼつかなし―心許ない。不安だ。確かでなくはっきりしない。
いかにせまし―どうしたらよかろう。
日曜なれば―日曜はユダヤ教・キリスト教の安息日。
鉄炉―ストーブ。
庖廚―台所。
相沢が手―相沢の手跡(筆跡)
いぶかる―不審に思う。
とみの―急の
天方大臣―伯・伯爵という言葉でも登場。明治二一年、政情視察のため渡欧した内務大臣山県有朋がモデル。また、鴎外の同窓賀古鶴所が秘書官として同行、相沢のモデルという。
見まほし―会いたい。
よも―まさか(~ないだろう)
思ひしならん―思ったのだろう
心になかけそ―「な~そ」の禁止構文。 心配しなさるな。
今よりこそ(行かめ。参らめ。)―今からすぐに(出かけよう)
かくは心を用ゐじ―ここまで配慮するまい。
まみえもやせん―拝謁することもあろうか。
思へばならん―思ったからであろう
病をつとめて―病気を押して。
上襦袢―ワイシャツ。「襦袢」は肌着。
ゲエロック―フロックコート。男子の礼装。
襟飾り―ネクタイ。
手づから―自分の手で
誰もえ言はじ―誰も言うことはできないでしょう。
不興なる―不機嫌な
容を改めて―改まった様子になって
よしや~とも―たとえ~でも(としても)
幾年をか経ぬるを―何年か経ったことだろうに。
友にこそ逢ひには行け―ほかならぬ友人に逢いに行くのだ。
ドロシュケ― 一頭立ての辻馬車(二輪馬車)。
朔風―北風〔「朔」は北方の意〕。(髪乱して窓から見送るエリスが象徴的。この窓は後、「烱然たる一星の火、暗き空にすかせば、明かに見ゆるが、降りしきる鷺の如き雪片に、乍ち掩はれ、乍ちまた顕れて、風に弄ばるゝに似たり」と記される)
カイゼルホオフ―「王宮」。ベルリンの高級ホテル。
門者―ドア・ボーイ。
プリュッシュ―ビロード状の綿・絹織物。
ゾファ―ソファ
前房―控えの間
踟樶―躊躇(ちゆうちよ)。ためらうこと。
品行の方正なる―身持ちが正しくきちんとしている。品行方正。
失行―不始末。過ち。
さまで―それほど
意に介せざりき―気にかけなかった
情―事情。事実。
細叙―詳しく述べる。
謁する―拝謁(謁見)する。お目にかかる。
委托―事務処理を依頼する。
答へき―答えた。
生路―人生行路。閲歴。
平滑―平坦で順調。
轗軻数奇―不遇・不運。
胸臆を開く―胸襟を開く。心を開く。
閲歴―過去の経歴。過ぎ去ったことども。
譴める―責任を問う。叱る。
凡庸なる―平凡な
諸生輩―留学生仲間
色を正す―厳しい顔つきになる
諫むるやう―忠告することには
かひなし―しかたがない。むだである。
かかづらふ―かかわりあう。こだわる。
成心―先入観
曲庇―道理を曲げて人をかばう
朋友―友人
薦む―推薦する。
縦令(たとい)―「とも」と呼応して、逆接仮定条件を表す。「たとえ(仮令)」に同じ。
情交―親しい交際。男女の交際
人材―才能(ある人物)。
慣習―慣れ親しむこと。ならわし、習慣。
方鍼―方針。進路。
往きつきぬとも―必ず行き着くものとも。「ぬ」は強意(確述)。
中心―衷心。本心。
思ひ定む―決心する。
しばらく(姑く)― 一時的に。仮に。とりあえず。
情縁―恋愛関係
失はじ―失うまい。
抗抵―抵抗。あらがうこと。
え対へぬ―応答することができない。
撲てり―たたきつけた。吹きつけた。
玻璃―ガラス
ことさらに―格別に
膚粟立つ―鳥肌が立つ。
故郷―ここでは故国(日本)。
失錯―過ち。しくじり。

来べきか―来るだろうか。付いて来ることができるか 。
いかで―どうして。次の打消表現「従はざらむ」と呼応して、反語の意。「どうして従わないことがあるだろうか。いや、必ず従う。」
頼む―頼る。頼りに思う。
卒然―にわかに。
答への範囲―答えの及ぶ範囲。
うべなふ―承諾する。
屡々(しばしば)―たびたび
代―代金
賜はりし―いただいた(もの)
これにて―これ(この金)で
費―費用。生活費。
支へつべし―きっと保つことができるにちがいない。
常ならぬ身―妊娠していること。身重(みおも)。
心づかでありけん―気づかなかったというわけなのだろう。「けん」は、理由を表す言葉を伴って、原因推量を表す。
籍を除きぬ―(劇団の名簿から)除名した。解雇したことをいう。馘首(かくしゆ)。
言ひおこせつ―言ってきた。「言ひやりつ」の反意。
故あればなるべし―理由があるからであろう。
いたく―甚しく。
鉄路―鉄道
用意とてもなし―用意というほどのものもない。
ゴタ版―ゴタで出版された
魯廷―ロシアの宮廷。
貴族譜―貴紳録。紳士録。
物憂かるべく―つらい。苦しい
うしろめたかるべければ―気がかりだろうから。
知る人がり―(彼らの)知人のもとへ。
何事をか叙すべき―(「~か~べき」で係り結び。反語表現)とくに書き記すべきほどのことは何もない。
舌人―通訳。
拉し去りて―連れ去って
青雲―地位・学徳などが高いこと。高尚な上流社会を指すか
ペエテルブルク―帝政ロシアの首都。レニングラード。
囲繞―取り囲む。
驕奢―おごりと贅沢。
粧飾―美しい化粧と装い。
黄蝋の燭―ハゼノキ(黄櫨)から採った蝋で作る蝋燭。
エポレット―肩章
映射―照り映える。
彫鏤の工―彫刻の技巧
カミン―壁式暖炉。
賓主―賓客と主人側。
周旋―取り持つ。世話する。
事を弁ずる―用を果たす。
文―手紙
え忘れざりき―忘れることができなかった。
心憂さ―つらさ
物語し―世間話をして
猶(なほ)―ますます。よりいっそう。
かかる思ひ―このような思い
生計―生活手段。
ほど経て―しばらくして
今ぞ知りぬる―今こそ思い知りました。
族―親族。親戚。血縁者。
~ことやはある―~ことがあるだろうか(いや、決してない)。 「やは」は反語。
我が愛もて―私の愛情で
つなぎ留めではやまじ―つなぎとめないではすまさない。
かなはで―できずに
かほどに―これほどに
路用―旅費。路銀。
世に出づ―出世する。
日をこそ待ため―日を待つことにしよう。
日にけに―日増しに。
袂を分かつ―別れる。
苦艱―つらさ。悩み。
迷ひなりけり―心の迷いなのであった。「けり」は〈気づき〉。
しるくなれる―著しく目立つようになった(こと)
それさへあるに―それだけでもどうかと思うのに
ゆめ―決して。禁止・打消の語(な~そ)と呼応
過ぎしころには似で―以前には似ないで
思ひ定む―決意する。
心折れぬ―自分の気持を曲げ納得した
わが―私が
ステッチン―ベルリン郊外の町
ともかくもなりなん―(きっと)どうにでもなるだろう。
地位―ここでは「置かれた立場」の意。
明視―はっきり見つめる。認識する。
順境・逆境―物事がうまく行っている境遇と不運で苦労の多い境遇
胸中の鏡―心の中(判断力)を指す比喩。
厚し―手篤い。
職分―職務の役割。
神も知るらむ―神もご承知だろう。神に誓って。
冷然たり―冷ややかである。
屋上の禽―風見鶏のことか。
ごとくなり―ようだ
かくてあらば―こうしていられたならば
かく―このように
公事―公務
告げやしけん―告げてしまったのだろうか。

本領―その人独特の性質や才能。本来の特質。
解くに由なし―ほどくすべがない
あなあはれ―ああ悲しい。
あたかもこれ―ちょうど(すなわち)
旦―朝。明け方。
駆りつ―走らせた。
除夜に眠らず―大晦日を騒ぎ明かすヨーロッパの風習。「除夜」は大晦日の夜。
習ひ―習慣。慣習。
寂然たり―ひっそりと静まりかえっている。
稜角―とがった角。
馭丁―御者(ぎょしゃ)。
何やらむ―何であろうか。
絶えなんを―必ず絶えてしまったことでしょう。「な(ぬ)」は強意の用法。
ただ―ほんの
一刹那― 一瞬の間。束の間。
低徊―心を決めかねて同じ所をうろうろすること。徘徊(はいかい)
踟―ぐずぐずすること。ためらうこと。躊躇(ちゆうちよ)。
倚る―寄りかかる。もたれる。
幾階か―何階へか。
鑼―どら(銅鑼)。打楽器の一。金属性の円盤をひもでつるしたもの
いち早く―すばやく。さっさと。性急に。
ねぎらふ―労苦に報う。
伴ふ―連れて行く。
一瞥― 一目見る。
レエス―レース編みの布。
何とか見たまふ―何とご覧になりますか。
心がまへ―用意。準備。
襁褓―産着(うぶぎ)、生まれたばかりの子に着せる衣。おしめ。
黒きひとみをや持ちたらん―黒い瞳をもっているでしょうか
正しき心にて―その正しい心で
あだし名―他の姓名。別れることに対するエリスの危惧を暗示する
をさなし―幼稚だ。愚かだ。他愛ない。
寺に入らん日―洗礼を受けさせるために教会に行く日。
いかに―どんなに
嬉しからまし―嬉しいことでしょう。「まし」は推量。
おはさん―おありだろう(か)
あへて―進んで。
使ひして―使者をたてて
めでたく―立派で
わが測り知るところならね―(係助詞「こそ」と呼応する「ね」は打消の助動詞「ず」の已然形。逆接の関係で以下に続く)私が推測できることではないが。
滞留―長く滞在する。
さることなし―そういうことはない。
落ち居たり―安心した。
気色―様子。顔色。
辞む―断わる。否定する。
あなや―ああ、しまった。
この手にしも―まさにこの手づるに。「しも」は強意。
ひきかへさん道―取り戻す方法
広漠たる―果てしなく広い
念―思い
心頭を衝いて―心を突き上げて。衝動的に。
特操―他に左右されないしっかりした意志。堅い節操
承りはべり―かしこまりました黒がね―鉄。「黒がねの額」で鉄面皮「厚顔無恥」の意。
何とか言はん―何と言ったらいいのだろう。
錯乱―意識が混濁し、思考に異常をきたすこと。混乱。動揺。
叱せられ―叱られ。どなられ。
榻―長椅子。腰掛け。ベンチ。字音は「とう」。
灼く―真っ赤に焼く。焼けつく。本文は灼熱の解字。
椎―木槌。
もたす―もたせかける。寄りかからせる。
骨に徹す―骨身にしみとおる。
モハビット―ベルリン西北の地名。
カルル街―ベルリン市内の街。
鉄道馬車―路面電車のレールのような軌道の上を走る馬車。
ブランデンブルゲル門―前出「ブランデンブルク門」に同じ。
瓦斯灯―ガス灯
半夜―夜半。真夜中。
酒家―酒場。
賑はしかりしならめど―賑やかだったことであろうが。
ふつに―まったく(~ない)。
炯然たる―光り輝いている。
一星の火― 一点の火。
鷺のごとき―白鷺の羽のような(真っ白な)
いかにかしたまひし―どうなさったのですか。
うべなりけり―もっともなことだ
蒼然として―真っ青になって
おどろと―髪などがぼうぼうと乱れてもつれているさま
をののかれて―自然に震えがきて「れ(る)」は自発。
立つに堪へねば―立つことができないので。

人事を知る―意識を取り戻す。
ねんごろに―心をこめて。手篤く
顛末― 一部始終。事の初めから終わりまでの経過。
つばらに―詳しく
侍する―そばに仕える。付き添う。
いたく―たいへん
頬は落ちたり―肉が落ちて頬がこけていた。
窮せざりし―困らなかった
聞こえあげし―申し上げた。
一諾―ひとたび承知したこと。
さながら―まるで
豊太郎ぬし―豊太郎さん。豊太郎様。
かくまでに―これほどまでに
なげうちしが―投げ捨てたが。放り出したが。
探り見る―手で探って見る。
廃して―すたれる。くずれてだめになる。
痴―愚か
過劇なる―激しい
心労―気苦労。心配。
パラノイア―偏執症。分裂病の症状の一つで、以前は「失神」「痴呆」などという訳語を当てていた。
治癒―病気が治ること。
ダルドルフ―ベルリン北郊の町
癲狂院―精神病院
聴かず―言うことをきかない。聞き入れない。
離れねど―離れないけれども
これさへ―これとても
癒えぬ―治った。「ぬ」は完了
千行の涙―幾筋にもなって流れ落ちる涙。涙にかきくれる様子を表す
はかりて(議りて)―相談して

また得難かるべし―二人とは得られないであろう。
脳裡―脳裏。頭の中。心の中。
残れりけり―残っていることではある。「けり」は詠嘆の意。


立原道造の生涯Ⅰ

 

銀座「ニユー・トーキヨウ」にて 1938(昭13)年春 23歳



 立原は、軽井沢を愛し、建築と詩にその才能が期待されながら、澄んだ魂のまま「五月の風を ゼリーにして持ってきてください」の言葉を残して二十四歳という若さでこの世を去りました。
 室内楽にも似た、ソナチネの調べを運ぶ詩からあふれでる抒情の響きは、青春の光芒を永遠に灼きつけ、時代を越えて今なお輝きを失わず、人々に愛唱されています。

 1997年には東京大学弥生門前に「立原道造記念館」が、2004年には、さいたま市別所沼公園に、立原の設計した「ヒアシンスハウス」が建設され、彼の夢の一つが実現しています。     

1914年(大 3)、東京日本橋に生まれる。東京府立第三中学校、旧制第一高等学校を経て、
1934年(昭 9)東京帝国大学工学部建築学科入学、この夏、初めて軽井沢を訪問、以後、毎夏信濃追分に滞在。一高時代より堀辰雄に兄事、大学入学後は堀の主宰する「四季」の編集同人となりました。大学在学中、建築学科の辰野金吾賞を卒業まで3年連続受賞。建築設計の次代を担う才能と期待されました。
1937年(昭12)、詩集『萱草に寄す』『暁と夕の詩』を出版。
1939年(昭14)、2月、第1回中原中也賞を受賞するも、同年3月、24歳という若さで逝去。

 

   立原道造の生涯Ⅰ
      ―抒情を形造るもの―
         詩人の誕生(一高卒業まで)
 どうして愛がおまえのところへやって来たのだろう。
 陽の降りそぞぐように 落花の雪のように それとも
 祈りのように やって来たのかしら?――
 それを 語りたまえ。   R・M・リルケ (星野訳)

  そうしてどんな風におまへは来たの?
  日の照るやうに、花吹雪のやうに来たのかしら
  祈りのやうに来たのかしら―― おはなし
  (このサイトの縦書きがうまく動かない方はこちら「杉篁庵別室」)
   目次
  出自・小学校時代  ・・①
  中学校時代     
    ・三中     ・・②
    ・パステル画  ・・③
    ・自選葛飾集  ・・④
  一高時代
    ・文芸活動   ・・⑤
    ・短歌から詩へ ・・⑥
    ・詩人の胎動  ・・⑦
    ・立原の立脚点 ・・⑧
    ・詩人の誕生  ・・⑨ 




詩人の誕生まで(一高卒業まで)
 立原の文学的出発がいつどのようになされたを問題にする場合、彼の育った下町という環境と風土をふまえなければならないのは勿論であるが、もって生まれた素地・性向と積み重ねた素養に彼の文学性を育てたものを探ってみよう。

『出自・小学校時代』
   


      
 

 

 

 

 

日本橋の橘町に道造が生まれたのは、明治が終わって満二年、大正三年(1914)七月三十日のことであった。まだ明治の気風は下町に溢れていたが、大正政変の後、サラエボの一発が全世界を大戦の渦に巻き込んでいった時であった。
         



 道造は下町の子供としてその気風を身につけつつ伸びやかに育っていったであろう。問屋の軒続きにある街で、実家は商品発送のための木箱の製造を営んでいた。父が六才の時に亡くなってからは、母と弟の三人家族と多くの傭人の間で育った。おとなしくはにかみやで運動嫌いな子供だったという。下町の子供らしく剣舞を習い、母と共に芝居見物に行っては声色をまねたり、ばあやに連れられて相撲部屋を訪れたりしている。その折、力士と遊んでるうちはいいが、いざ稽古が始まると「喧嘩はいやだ、いやだ」といってむづがり出したという逸話があるが、これは彼の気質をよくあらわしている。
 大正十二年九月一日の関東大震災は、九才の時である。その折は案外のんびりしていたという。
 立原は背が高く教室の後ろの方に座っていたという。久松小学校はずっと主席で通したが、目立たないおとなしい子であったという。(主に、神保光太郎の「立原道造の生涯(四季追悼号)」による)
「兄の思い出」で弟・達夫は、
「よく喧嘩をしました。兄のことを思い出しますのは、まず第一に、そのことです。それから、那古船形に行ったり、御嶽(奥多摩)に行ったりしました。那古船形は千葉県の海岸ですが、二人とも泳げないので、濱で遊びました。
 兄は小学校の頃は、あまり友達と遊ばないで、先生とばかり遊んでいました。特に山田先生とは仲がよかったようです。」と書いています。
 彼の最初の(文学的)作品は、「滑稽読本 第一」(道造編とする小品五編からなる文庫版手製和綴り本の小品集・大正十五年五月・「門松の期限・サイマツ・シャカ誕生・古人と煙草・国勢調査」)であろうが、その頃の関心事を物語って面白いものである。しかし、それは彼の文学的目覚めであるとするには、余りに子供らしい作品であって、これは彼の育った環境が彼にこのような遊び を憶えさせたのであろう。だが、この江戸的趣味は彼の危うげな晩年を思い出させ、そこへ導いていった一つの因でもあった。



中学校時代
『三中』
 道造は久松小学校を経て、昭和二年(1927)に東京府立第三中学校(現 両国高校)へ入学。三中出身の文学者に芥川龍之介・堀辰雄がいた。三中も秀才で通し、絵画部・博物部・弁論部に関わっていたという。


  
    


 
 

 

『パステル画』
 絵画部にはいってからパステル画を本格的に描きはじめ、学友会大会に毎年作品を出品しては、高い評価を得ている。現存するパステル画約一〇〇点の殆どは、この三中時代の十三歳から十七歳(1927-31年)頃に制作されたと推定され、それらの作品は、生家のあった日本橋・静養先の流山(旧新川村)・避暑をした御岳の風景画、身近な物を描いた静物画、心象スケッチともいえる抽象画、人物画と、画題は多岐にわたってる。
      
 神田の文房堂で、二〇〇種類もの緑色(道造はとりわけ緑が好きだったという)のルフランのパステルを買ったと伝えられており、好みのパステルを手に描き出された作品世界には、単なるリアリズムにとどまらず、ヨーロッパモダニズムの影響が見られ、青春の心の詩とでもいえるような夢や息づかいが感じらる。


 日本橋の風景を描いたパステル画には、関東大震災(1923年9月)後の1929年に再建された「立原道造商店」のヴェランダから見下ろす構図が多く見られ、荒廃から次々と復興していく町の様子が、鮮やかな色彩で描かれてる。「街上小景」「町の風景」「荒廃」「屋根の風景」といったタイトルの絵は、子供の絵ではなく、建物がしっかり描かれており、当時流行の看板建築を知るうえでも貴重な資料になるという。(主に立原記念館パンフレットより)
 
『自選葛飾集』
 昭和六年(1931)に四年の中学をおえるが、この四年間の作品(短歌)をまとめて、「自選葛飾集(山本祥彦第一歌集)」を編んでいる。
 これは「序」に記されるように「最初の二編『葛飾集』と『硝子窓から』とは、旧作二百五十ばかりの中の選集である。『葛飾集以後』から、僕の歌作ノートである」。
 「葛飾集以後」以下の歌ノートは、ほぼ昭和四年(1929)八月以後約一カ年の間(歌の内容から五年秋頃までと推定される)に書かれたものであろう。この歌ノートによって彼がその出発において文学をどのように捉えていたかを見ることが出来る。
 まず、彼の出発が短歌にあったことはやはり見逃すわけにはいかない。
 彼の短歌はほとんど三行の分かち書きで、これはその頃愛読していた啄木の歌集の影響であろう。そこから彼の詩が生まれてきたことを思えばまた面白い。(「僕は中学三年生の頃の秋の日のことなどよくおもいだす。僕がそのころ「一握の砂」や「悲しき玩具」の愛読者で模倣歌の作者だった」杉浦宛手紙)
 また、口語歌の試作として最初に詠われている歌に
   耳を木にあて、
   小半日泣いて居た、
   あの時の空、
   薄暗かった。
がある(これは例外的に自由律の四行分かち書き)。ここに顕れているほのかな抒情は後の詩編に通ずるものがある。
 なお、「硝子窓から」(昭和三年一二月~四年三月の歌)には自殺という言葉が幾つか出てくるが、これは少年誰しもが持つ自殺への夢ばかりでなく、芥川の自殺事件がいつも立原の胸の中に小さな波紋を漂わせていたためでもあったと思われる。(「芥川先生の死、夏休みが始まると直ぐ起ったあの出来事、僕があの事を知ったのはその翌日、何気なく朝の新聞を開いた時でした。すると、どの新聞も『或る友人に送る手記』の全文、抄出思い思いに掲げ、在りし日の写真、そうして氏の略伝を添へて有ったのでした。三中出身、僕の今学んでいるこの学校の先輩さうして文壇の鬼才だった先生の御魂永久に安かれとお祈りいたしました。/但し、どうしてあんな偉い先生がたどうして自殺なんかなさったのでせう。さうはいふもの、偉い先生だから人生の奥底までみつめられ、人生というものに対して或る淋しい感、自然と比べて短い命を嘆かれああいふことをなさったのでせうか。」昭和二年七月二六日・八月三一日橘宛手紙)
 また、昭和四年の歌(二月より八月に至る歌)には、若い道造の胸に湧き上がった幼い記憶が、感傷的にはかない情緒をもって歌われている。それらの歌は道造の後の詩を産み出す彼の持ち備えていた資質・情感を伝えている。はやくも彼の抒情は歌となって吐露され、そのはかなく美しい澄んだ瞳の少年は、華に川に風に山に小さな命に、その情感を詠っている。
 「葛飾集以後」になると、道造の歌才をうかがえる作品が少なくない。「後書」で道造が「この短歌の持つ純なエロチックな気持ち、夢のやうな淡さ、何かあこがれている情緒」といっているように、そこには後の彼の詩の萌芽を見ることが出来る。
 それは例えば 「葛飾集」最後の歌
   片恋は夜明淋しき
   夢に見し久子の面影
   頭にさやか
 この歌に始まる、友人の妹(博物の金田先生は叔父に当る)への思慕感情を詠った作品や、同じ言葉か繰り返される歌、(極端な例になるが)
   はじかみは根さへ茎さへ
   はじかみは茎さへ根さへ
   はじかみの味
といったものなどに顕れている。


 昭和四年(1929)制作のこのパステル画のモデルは、府立三中の級友の妹金田久子といわれている。立原の密かな想いは告げることなく終わるのだが、当時盛んに作っていた口語自由律短歌に歌われている。この恋への姿勢はこの後も彼のスタイルとなった。
        


 この昭和四年頃は、天文学に興味を持ち、天体望遠鏡を覗いたり、「天文月報」や「萬有科学大系」を読みふけり、大学で天文学を専攻する意向を持ったため、父親亡き後店の看板は「立原道造商店」と改め、道造で三代目となっていたが、店は弟達夫が継ぐことになったようである。その頃のことを達夫は「伊達さんとは天文学の方でも仲がよく、物干台に天体望遠鏡を置いて、二人で見た結果を話し合っていました。私もよく夜中に連れて行かれて月や星を眺めました。その頃は『子供の科学』をとっていました」(「兄の思い出」)と記している。
 この中学三年の一学期は、神経衰弱のため休学していた。
 進路に関しては、絵の才能を生かしての画家を目指そうと思うこともあったが、母親の反対もあり、天文への関心も強く、一高の理科甲類に進むこととなる。

一高時代
文芸活動
 昭和六年(1931)に、両国にあった第一高等学校理科甲類(英語)に入学する。
 最初の一年は寮生活で、家を離れた当初激しい郷愁を経験し、「益々さびしがり屋になった」(達夫「兄の思い出」)。
 卒業(昭和九年)までの間、「交友会雑誌」「波止場」「詩歌」「向陵時報」「こかげ」に歌や物語を発表する。

「交友会雑誌」(333・333・335・342・344号 、333に物語「あひみてののちの」を掲載)
「波止場」(同人誌・ミチ.タチのペンネーム)
「詩歌」(前田夕暮編輯・三木祥彦のペンネーム・12巻7~12、13巻2.3.5.6.)
「向陵時報」(ローマ字表記の歌七首=一高ローマ字会の活動)
「こかげ」(同人誌・物語(「はかない夢のような」物語・散文詩、創刊号~4号))

 「こかげ」同人と・右端








『あいみてののちの』
「校友会雑誌」(昭和六年九月号)所載の物語である。 
 これは当時の一高生にとって「大きな驚きをまきおこした小説」(杉浦)であった。太田克己は「立原は一躍一高文壇の寵児となった。たしかにそのどこか空っとぼけのした純粋な童画風の作品は、一途に大人になりたがろうと爪尖だっていたぼくたちの虚を衝いたものであった。努めて思想的てあろうとし、生活の中に首をつっ込んで現実世界をぎりぎりの点まで追い詰めてみることに文学実態を把握しょうと試みていた風潮のさ中にあって、これはまたなんという野放図な楽天ぶりであったろう!」と語っているように、道造の独特の文学的感性で描かれた小説であった。それはまた彼の文学観を示すものであった。
 物語については、立原は「小説を書いたりしてみます。やっぱりだめです。ある人が、それはTheorie(理論)がないからだといひますが、そんなことは信じません。…きっと僕の持ってゐるMarchen(メルヘン)の心がこはれて行くからなのだと思ひます」(昭和七年金田宛手紙)と書いています。彼にとって文学が目指すものはMarchen(メルヘン)の中にあると信じられていた。

 その頃の彼の友人には、杉浦明平、太田克己、生田勉、國友則房、江頭彦造、猪野謙二、田中一三、寺田透等がいた。理系でありながら、文学活動を通して、文系の友人も多くなった。
(杉浦明平=1913~2001 作家、評論家。愛知県生まれ。1936年、東京大学文学部国文科卒業。敗戦後は郷里渥美郡福江町(現渥美町)に住み、町会議員などを経験。
 生田勉=1934年に東京帝国大学の農学部林学科に入学。その後、建築学科に再入学。同大学で丹下健三などとも交流を持ち、卒業後は「建築は丹下君に任せる」といい、自身は海外の建築家の研究を続ける。言葉どおり多くの翻訳を発表する傍らで、数は少ないがシンプルで斬新な設計を続けた。
 江頭彦造=詩人。のち大学時代に、猪野謙二、江頭彦造と同人誌『戯画』創刊。)

 立原は「誰にでも唯一の親友と思わせるような一種の徳を持っていた」(江頭)。それは彼の友人に宛てた数多くの書簡によく顕れていて、友人も多くその友情も厚いものであったが、それはまた多分に都会的なさっぱりした消極的なものであった。「あいみてののちの」にもそれは現れていて、彼の特異な感性として生きている。

 また、この昭和六年・一高一年生の秋、一高の先輩でもある堀辰雄の面識を得、以後兄事することとなるが、この堀との出会いは立原にとって、こののち運命的ともいえるほど彼の人生を定めていく。まさしくこの出会いは詩人としての歩みをはじめる十七歳の立原にとっては、新たな世界へと飛翔するための、〈開かれた窓〉になった。

短歌から詩へ
 「詩歌」において三木祥彦のペンネームで口語歌人の新人として道造が認められていたからであろうか、高校時代に作られた短歌は全て自由律短歌であった。この自由律短歌創作と一高ローマ字会の活動としての口語短歌のローマ字表記とが彼に新しい抒情の方向を示唆した。その抒情が後に詩へと自然に流れ発展していくのである。このローマ字表記が、彼が後に歩む美しい口語詩を築き上げて行く道を方向付け、彼が日本語の中に美しさを見いだす礎となったと思われる。

 昭和七年八月の書簡で、三好達治の四行詩集「南窗集」について「僕は一度は大概誰でもすきになる。とはいふものの、人間があまいせいかしら、うつくしい抒情が、いちばんすきになります。〈南窗集〉でもそのアトモスフェアが、僕を魅したので、どのやうに心を打ったかといふならば、非常に心を打ったと告白します。だから、この頃は、往来など歩きながら、よく《それはそのまゝ思ひ出のやうな一時を……》などと、しょっちゅう口にぶつぶつ言ひます。」とか「とに角、一口でいへば、あれはすばらしい。いつかこの詩人が堀口大学についていた名言『機智の綱渡りの詩人』を機智と感傷をとりかへただけで、そのままこの詩人にあてはめられると思うが、この南窗集一巻はそのつなわたりの至芸を息もつかせず見つめることを、僕に強ひるのだ。(中略)白い紙を裏返しにしょうとしてしかねてゐるすきとほった手、僕は、その手の動きのうつくしさによって、こんなに魅せられてゐるのかも知れないよ。それから、も一つ見落としてならないものは、ほのかなひくい声、とほい物音で満ちてゐることだ。」と書いて、「蟻が/蝶をひいてゆく/ああ/ヨットのやうだ」をあげている。

 彼が四行詩を書き始めたのは、この影響があったであろう。
 それは自身の口語歌を四行詩に書き直すことから始まる。

 ◎何しに僕は生きてゐるのかと或夜更に一本のマッチと会話(はなし)をする
 ▽   「問答」
   何しに僕は生きてゐるのかと
   或夜更けに
   一本のマッチと
   はなしをする

 ◎胸にゐる擽ったい僕のこほろぎよ、冬が来たのに、お前は翅を震はす!
 ▽   「こほろぎ」
   胸にゐる
   擽ったい僕のこほろぎよ
   冬が来たのに まだ
   お前は翅を震はす

 昭和七年九月と思われる書簡にも「四行詩編」が見られ。
 この夏に四行詩を書き始めたからか、「詩歌」昭和七年六月号に自由律短歌を発表したのを最後にして、同誌には発表が無く、ほとんど短歌を作らなくなった模様である(「ゆめひこ」に四首散見されるばかり)。
 彼が四行詩を書き始めたというのは、この頃から彼の詩情が短歌から詩に移っていったということで、彼が詩を作り出したのはいつからであったかは定かではない。昭和五年の書に「短歌や詩は可成作りました」とあるから、その頃には作っていたことは確かである。
 「詩歌」に自由律短歌を発表していた道造は、その短歌に込めていたものを、三好達治の四行詩を読んだことから、詩へとその表現形態を変えた。ただ単に達治の詩に感動したばかりでなく、道造の短歌の中にその詩形を受け入れるものがあったと見るべきで、これまで短歌で培われてきた詩情が、新たな詩形を得てさらに新たな詩情を獲得していく過程はごく自然なものであった。

 昭和七年に、最初の手製詩集「さふらん」(四行詩集)が制作される。

詩人の胎動
 続いて、昭和八年には手製詩集「日曜日」「散歩詩集」の二詩集が生まれる(その他にもあるよう思われるが、発見されていない)。
 「日曜日」は、一高での最初の一カ年の寮生活中、日曜日ごとに家にいることを楽しみとした日々を記念するものとして作られた。十一編が収められているが、軽い即興的な詩、調子を合わせた歌のような詩、散文詩と様々で、そこからは求める詩を求め得ずに色々と彷徨う姿がうかがえる。この前後に記された未発表詩編百編も、散文詩、四行詩、無定型詩とその時々の筆の流れのままに書かれている。それはそれで道造の詩の出発が高い文学性を示しているといえるが、彼にとって試作習作の域を出ていないのも事実である。
 「散歩詩集」はこの年の暮れに制作している。散文詩四編、短詩三編を収めている。これらは内容として一応の完成した形を持って、立原の詩人としての出発をここに見ることは出来る。
 

     
 物語についても触れておくと、例の「あいみてののちの」の他、一高在学中に発表した物語は六編、その頃のものと思われる未発表作は十三編を数える。これらの物語は、夢のようなはかない感情で書かれており、例えば、「手紙」(校友会雑誌・八年十一月)については、「ただあれだけの何でもない出来ごとを独特の感受性の動きによって見事な短編にまとめあげている」(太田・「投稿作品に就いて」)や、「その特異な感性で詩的に捉へられた鋭い表現か目立つ」(國友・「編集後記」)と評されている。
 しかし、やはりここではこの頃の彼の詩や物語については、彼の純粋な感受性の描き出した作品と言うにとどめておく。

立原の立脚点
 この頃の立原の文学的関心事を示すものとして、一高卒業間近な頃の書簡(六年二月・國友宛)を引用する。
 「室生犀星とリルケだけ、僕は心を打ちこもう! だが、そのことは同時に、リルケを通して、セザンヌとロダンとヴァレリイとボォドレェルとノヴリスとに、犀星を通して、芭蕉と朔太郎とに、僕を送るだろう。そして今はリルケと犀星だけでよい。僕は決して議論など学びたくない。あの二人の、神と平野の間で苦しみ祈った魂のなかで、生きたい!」

また、この頃の、いやこの頃から晩年に至るまでの道造の文学観については、後に述べるつもりであるが、ここでは、その頃進歩的グループといわれた人々に対して道造がどんな態度をとっていたかを、杉浦が語るところ(「一高時代の立原」)から見ておく。
 それによれば、立原は「芸術至上主義者」であって、「芸術のための芸術や浪漫的なものをやっつける」ことを説いていた当時の進歩的学生を尊敬する杉浦に、立原は『堀辰雄さんが一高のころ、文学者が文学の問題を経済学や革命の問題にすりかえて論じるのは卑怯だ、と書いたのを読んだばかりだ』と答えて、一般が「文学の自律性を認めず、もっぱら政治の道具としてしか見なさないという傾向が強」く「進歩的ということばに追従していた」中にあって、「立原はぜったいに自分の考えをまげて他人に同調することをしなかった。」という。
 この立場はこの後、彼の文学を方向づけていくが、晩年の彼の悩みもまたここから発するかと思われる。


詩人の誕生
 これまで見たように、道造の一高時代は、読書と詩・物語を書くことが生活の大きな位置を占めるようになり、抒情の表出は短歌から詩へ移り変わったと言えよう。これを「詩人の誕生」と言えなくはないが、「詩人」として世に認められるのは、この後、一年も経ないうちである。
        (肖像写真の画像および資料提供:立原道造記念館)  
  (以下、そのⅡへつづく)